「『30年代原発ゼロ』決定」(毎日)から

 寝ぼけ眼の休日の朝、新聞を引っこ抜くと「『30年代原発ゼロ』決定」との見出しが一面にある(2012.9.15)。普段なら近所のコンビニに出かけて各紙をかっさらってくるとことなんだが、起き上がってから半時間ほどしても、どうにもその気力がない。

 
 まあ、休日だからのんびりいこうや、という思いがある。体もどうも疲れが取れていない。でも、ほんとうの理由はそうではない。この見出しに、「大丈夫かな?」と思った、そこに、多分原因がある。

 
 はて、原発に対して批判的・否定的である僕は、この決定を否定する理由はあまり持ち合わせていないはずだ。なのに、何かこう、一抹の不安を覚えるのはなぜであろうか。何が「大丈夫かな?」なんだろうか。

 
 こうした決定に対して取り得る態度は様々にあり得るが、まっ先に思い浮かんだ態度は、「これでは生ぬるい」というものだ。「即廃炉」という観点から、「30年代では遅すぎる。もっと早くせよ」という考え方。核燃料サイクルの継続をもって、欺瞞の匂いをかぎ取るのは十二分に妥当だと思うが、そうした態度もこのタイプに含まれるかもしれない。

 
 そこには鋭い視点があるだろう。その鋭さが、傷つける必要のない人を傷つけることのないよう、祈る。

 
 第二に想像出来る態度は、この決定を評価するもの。これを運動なり世論の結果(成果)だと考えるのは比較的多数だと思われるが、この決定以降もさらに運動を継続させるか否か、そこが分岐点になろう。時の厚生労働大臣が謝罪した後、薬害エイズを巡る運動に対して誰が何を言い、その結果どうなったのか。その総括がされたというのは僕は寡聞にして知らないが、傍目で見ていた僕には、ある一定の人々には相当な傷を残したように思われる。それは若い時期のひとつの挫折として思い起こされるようなもので果たしてあり得たのか。

 
 これで終わった、と思う人もそうでない人も、お互いが敵ではないのだと信じる。そこに敵はいない。


 ここまで考えてみて、どうやら自分の不安の正体がおぼろげながらに見えてくるのだが、もう少し先に進もう。


 第三に取り得る態度は、「野田内閣はブレているだけなんじゃないのか」というもの。声の大きな方に従っているだけで、実のところ節操はあまりないのではないか。何らかの意見を持って意思表示をしてきた人にとって見ればそれは「成果」であることは疑いようがない。けれど、何かこう、今の野田政権を見ているとのらりくらいというか場当たりというか、そういう感触がどうにも付きまとってしまう。また更に大きな声があがったら、方向が変わっていくんじゃないのか、と。そうさせないために引き続き運動を、という理屈は正しいのだが、そこはさておいて、それよりも不安なのは、「ブレることがよくない」という考え方だけが抜き出されてひとり歩きすることだ。ファシズムなんて言うのは簡単だが、無投票で政権を取ったファシストがいるか。


 そういいたくば「市民」と言っていい。「庶民」でも「大衆」でも「有象無象」でもよろしい。とにかく、そういうものとしての「自分」が、何をどこまで考えられるのか。


 第四の態度は、原発を推進するものである。安全性は大事だが、エネルギーの確保なくして産業も社会も成り立たない、とするもの。吉本隆明さんの原発に対する態度もここに含めてしまおう。これは強固なものだ。これを洗脳というのはたやすい。意固地だと切り捨てることも。でも、ほんとうに批判しきることが出来るのかどうか、僕は考えれば考えるほど自信がなくなってくる。


 原発は少なくとも「安全な実用段階」とは言えないし、未完成のまま突っ走って来てしまった、それを見直さなければならない。だから、カネがつきまとう体制や仕組みも含めて、いったんチャラにしましょう。ここまでは僕は言えそうだ。けれど、まっとうな「研究」が継続されるのは決して悪いことではないし、そう考えるとおそらく敗戦後の困難の中で――それは日常生活に付きまとう停電といったことももちろん含まれよう――「エネルギー」を渇望した、その時代の精神を批判しきれるかどうか、と自分に折り返されてくるのである。


 たとえ原子力や資本制を放棄しても言語という一神教が残るのだ。キューブリックの『2001年宇宙の旅』の「モノリス」のように、それに触れることで知性や暴力性が過剰に発達してしまうもの。言葉。人間は言葉を通して現実を変えて来た。その長い時間をかけた交配こそが資本制や原子力を生み出したのだ。
 
 つまり、資本制と原子力が厄介なのは、それが人間の本性に根ざしているからだ。ならば必要なのは、言葉の交換それ自体の中に、暴力を超える原理を見ることだ。


 大澤信亮さんの「出日本記」(「群像」2012年5月号)からの引用であるが、今ここに新たな参照項として、浅尾大輔さんの最新評論「詩人・高村光太郎の放射能」(「クラルテ」第4号)を付け加えることができる。読みながら考える僕の作業は、まだ始まったばかりだが。


 話を最初に戻そう。僕の漠然とした不安の正体がなんであるか、「大丈夫かな?」とは何に対してかということだ。

 
 ひとつには、この決定を巡って、敵ではないものどうしが争うことのないように、傷つく/傷つけられる必要のない人が傷をおうことのないように、外に向かう暴力も自分自身に向けられる暴力もないように、心の底から祈るということだ。不穏なことがおきませんように。


 「当事者」じゃないからそんなことが外から言えるのだと言われれば否定はしない。だが、それは誰もが傷つかないように祈ることと矛盾はしまい。運動と言説の場は、かえって露骨にカネが介在しない分余計に泥沼になりがちなことだけは判っている。だからこそなのだ。


 もうひとつには、これは結局回り回って自分に跳ね返って来てしまうのだけれども、「ブレる政治/ブレない政治」を巡って、あるいは原発の対する根源的な態度を巡って、自分自身にさて、どこまで確固たる視座が準備出来ているか、その不安。


 「大丈夫かな?」というのは、他ならぬ自分自身に向けての、さあこの時代と状況をどう生き延びていくつもりなのだおまえは、という問いかけであったのだ。
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by todoroki-tetsu | 2012-09-15 09:18 | 批評系 | Comments(0)

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