平成23年(う)第1051号

 「東京地裁 平成20年合(わ)第491号」から、「東京高裁 平成23年(う)第1051号」と変わったその事件の、判決の場に、立ち会うことは出来なかった。


 何となく、抽選に外れるだろうという気はしていた。前がそうだったのだから。妙に早く着いてしまったことといい、目が離せない批評文を手にしていたことといい、どうにも符丁があうのだった。寒い季節か暑い季節か、並んだのが左か右か、そんな程度の違いでしかない。1年半前に手にしていたのは大澤信亮さんの「復活の批評」であり、昨日手にしていたのは小林秀雄さんの『感想』であったが、これはあるいは大きな違いかもしれない。

 
 してみると、いかに忘れっぽい僕でも、多少なりとも身体感覚でこの事件を、裁判を、記憶にとどめていたということか。その時見ようとしていた何かというよりも、何かを見ようとしていた自分のことを、思い出すのかもしれない。

 
 高裁での公判は、一度だけ傍聴することが出来た。被告が出てこない、というのはあり得る話なのだろうか、というのが大きな疑問であった。いったい、何をしたいのだろう、と思った。

 
 「死刑が確定したとしても、執行まで時間はある。人間として成長してほしい」(2012.9.13「毎日」)と、重傷を負ってもなおそうしたことを語る方の思いが、届くのか届かないのか、僕には判らない。届いてほしいとも届くべきだと思う資格は僕にはない。ただ、考え続けるだけだ。


 これでおしまいということでは、おそらくない。さらに何かが続くのか、そう遠くないうちに刑が確定し、執行されたとしても、被害者にあわれて生きのびる方々の、あるいは亡くなられた方のご遺族の、あるいは加害者の身の回りの方々も、日々の生活はめぐってくる。

 
 そうした時代と社会に、僕自身もまた生きているわけなのだが、忘れっぽいが、たまに思い出したように何かを考えたふうになったりもして、時として偉そうに、時としてしおらしくもなる。こういう手合いが一番性質が悪いのだ、とこれももう何度か記したことのような気がする。


 忘れない、などと言うことは出来ない。努力する、ということは出来るが、どうにもおさまりが悪い。自分自身の問いとして据えられなければ駄目なのだ。回り回ってその手がかりがつかめるかもしれないという、そういう感触だけはようやくおぼろげながら立ち現われてきた。


 事件当初の2008年初夏以降、2年ほど僕は事件を忘却していたといっていい。ふとしたきっかけがあって、忘れていたことに気づかされたのだが、しばらくの間は、「では、いかに応答すべきか」と考えていたといっていい。「じゃあ、どうすればいいのだろう/どうすべきなのだろう、自分は」というわけだ。しかし、こうした考え方は、知らず知らずのうちに、他者を傷つけるものでもあった。自らの膿を切り裂くつもりの刃が、覚えず他者を傷つける。そうして傷つけてしまった他者は、だいたいにおいて、傷つけてはいけないような人々であったのだ。


 応答しようなどと考えるのが間違っていた。そのことに気づくまでにまた随分と時間を要した。「問い」それ自身にのたうちまわること。答えを出そうとあせるのは逃避以外の何物でもない。


 もっと早くにヴェイユを読み返すべきであった。僕にとっての「真空」は、おそらくここに存する。真空に、耐えなければならない。しかし、恩寵を期待してはならないと言い聞かせる。


 そこまで行き着いた時にはじめて僕は、「君が死ぬのを悔むような社会を僕はつくりたい」(中島岳志さん、2012.9.13「朝日」)という言葉とまっとうに対峙できるだろう。今はまだ、まだまだだ。
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by todoroki-tetsu | 2012-09-13 23:16 | 批評系 | Comments(0)

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