「ロスジェネ文学」としての『葬式プランナーまどかのお弔いファイル』

 『葬式プランナーまどかのお弔いファイル』、と記すといささか長ったらしいが、デザインされたカバーから受ける印象はPOPなものだ。


 「フリースタイルなお別れざっし『葬』」で知られる「おもだか大学」こと奥山晶子さんの単著である。「葬」の独自のテイストを感じさせつつ、小説と実用的知識を兼ね備えたものであって、ああ、『ザ・ゴール』を源流とし、『もしドラ』へと流れた「小説仕立てのビジネス書」の流れが、お弔いの世界に、書店的な分類でいえば「実用書」の世界にもやってきたのだな、と思う。文藝春秋という出版社がこのノウハウをつかんだとすれば、面白い流れが、この本を起点に生まれるかもしれない。いかにも書店員的な発想だが、そういう意味での注目はしている。

 
 しかし、ここで記そうと思うのは、もう少し内容にかかわる部分、特に小説としての部分についての「感想文」である。


 本の内容に入る前に、おもだかさんとしてのブログ記事をいくつか拾っておきたい。


 2011年3月15日(火)の日付で、おもだかさんは「土葬という方法」という記事をアップされている。どれだけの人がこの記事を読み得たかは知らない。しかし、持ちうる知識をこの時期に発信しておられたことに敬服するほかはない。


 それからややあって2011年6月20日(月)の日付では、「日本の喪明け」 との記事があげられる。一見軽妙なタイトルだが、内容は実に真摯なものだ。

 まだまだ呆然と、していたい人

 私と一緒に呆然と、しましょう
 
 何もしないでいましょう。


 この時期にこういうことを言えたということ、こういう言葉があったのだということは、私たちにとって大変に重要な意味を持つ、と思う。前向きになんてなれやしない、がんばろうだなんていえない、そういう気持ちがあったし、それはおそらく今も何らかの形で継続している。「何もしないでいましょう」という言葉は、この日付とあいまって記憶しておいてしかるべきものだ。

 
 ここから僕の連想は若松英輔さんの『魂にふれる』に及ぼうともするのだが、ここはひとまずさておいて。『葬式プランナーまどかのお弔いファイル』に話を移そう。


 一読して、実用的な意味での役立ち度合は非常にデカいと思ったのだけれども、結論を言ってしまえば、それ以上に、これは「ロスジェネ文学」だと感じたのだった。浅尾大輔さんはロスジェネ文学について様々な言葉を駆使しているのは以前に見てきたことだし、定義といえるものももちろんある。『お弔いファイル』には、「カネと暴力に破れていく人間の終わり」(「かつて、ぶどう園で起きたこと」)が描かれているわけではない。けれど、主人公がナイーブであること(同)、「働くことを軽んじないで描いてきたこと」(同評論注6)、そういった特徴は十二分に兼ね備えている。


 プロローグにそれは明瞭に描かれる。


 病院で父の死に対面する五十嵐守。父は77歳とあるから、おそらく年のころあいは50代だろう。いきなり「喪主」となった守は、とたんに様々な決断に迫られる。自分の気持ちの整理もつかぬままに。その様子を見ていた葬儀社スタッフの川島まどかは、「一日何もしないこと」を提案する……。


 ここまでは、読み物の出足としても、また実用的知識を得るための「つかみ」としても、非常にすぐれている。
守の不安は共有され、「一日何もしない」なんて選択肢があり得ることに吃驚もする。さあ、続きを読んでみよう、という気になってくる。


 しかし、この一連のくだりの次が、僕にとってはたいせつに思われる(P.19-P.20)。「一日よく考えろって言って帰ってきた? ばかなんじゃないか、お前」と、上司に叱責されるまどかの姿が描きこまれるのである。


 この描写がなければまどかはただの狂言回しになってしまうし、何より、主人公まどかのナイーブさ――目の前のいる人の役に何とか立とうと思ってやってみる、けれどそれが会社的にはうまくいかないということ――がここで自然に、しかしはっきりと、表現される。


 無視も出来ず、さりとて会社の理屈に開き直りきることも出来ず……。そんな光景は、僕たちが日ごろ身を持って経験していることではなかったか。そうしたまどかが、公務員への転職を考えているというのも、極めて象徴的なことだ。

  
 ほかにも随所に「ロスジェネ文学」を感じさせる描写があるが、まだ新刊として一カ月も経過していない今はおいておくことにしよう。中下大樹さんの短いコメントにも随分と刺激されるのだが、それもまた別の機会に。

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 内容にかかわることではないかもしれないが、この本に「ロスジェネ文学」を感じ取る身として、気になることをひとつ記しておきたい。目次の最後に、ブックデザインとか編集協力の方々の名前があるのだが、「イラスト・DTP」のところに著者自身の名前がある。イラストは、判る。DTPまで、著者がやるものだろうか。もちろん、それだけのスキルをたまたま有していたのだろうと思うけれども、書店員としては「書くことに専念させればいいのに」とは思う。そんなところまで見やしないだろう、ともし出版社が思っていたら、それはかなり危機的な認識であろう、とは言っておきたい。

 
 はたして、「対価」はまっとうに支払われたのだろうか。「うちから本を出したいなら金をもってこい」という「学術系」「社会系」出版社の構図と、同じなのか違うのか。

 
 書くこと以外のこともやらざるを得なかったとして、少なくともその分への「対価」はまっとうに支払われていて欲しい、と思う。しかし、それは「値段をもう少し下げたほうが売れるのでは」といった、他ならぬ僕のような書店員の発言・発想――もちろんそれはものによるわけだけれども――が、回り回って著者や製作に携わる人々の首を絞めているのだとしたら。

 
 どうやら、僕自身のカネの話も、しなければならんようだ。
 
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by todoroki-tetsu | 2012-09-10 09:04 | 批評系 | Comments(0)

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