2012・8・23の各紙朝刊、別名「『運動』もしくは『問題』について」(その四)

 2012年8月23日の朝刊のうち、「朝日」「東京」「毎日」が残っている。わりあいに原発には批判的なような気がするが、もんだいはそこではない。自分と同じ意見を見出して一時の慰めを求めるのは、たいせつなことではあるが、今の僕にとってはさして重要ではない。


 「朝日」は比較的多くの紙面を割いているように見受けられる。会見要旨も載せているし、同時刻に官邸前で呼応するような行動があったことも記している。3面にはこうある。


 約束の時間は20分たらず。首相の発言が長引かないよう、会話を避けることを事前に打ち合わせた。「これは陳情でも交渉でもない。『官邸内抗議』だ」。笑顔なし、握手なしという方針も確認した。


 なるほどやはりそうであったか、とひとり合点する。ぶあいそだとかしゃべりすぎとかいった感想は、この方針の前では消し飛ぶであろう。しかし、一方で、「少しでも悪いように思わせてしまったら人が離れてしまうんじゃないか」という危惧、あるいはそのような危惧を抱く人を代弁しているかのように語る人が、たえることはない。それはそういうもんだろう、という開き直りが必要だと感じると同時に、ここに何かがやはりありそうな気もする。それはおそらく運動というか、力学では説明しきれないものであるようにも思える。


 社説では「開かれた政治の一歩に」と大見出し。「読売」との対象を為す。先に参照した記事もそうであったが、「民主主義」という言葉が目立つように見える。なるほど、民主主義の問題といわれれば、そうかもしれない。そうでないと思えば、そうではないとも言えよう。


 様々な思いや意見を、一つの色に塗ることは出来ない。そんな感覚がある。ひとりひとりが、様々な色彩を帯びている。一色ではない。点描からなるような、多様なひとつひとつの色の点が無数に個人を織りなす。その個人が無数の点となり、一幅の大画をなすだろう。その大画がひとつの色調を帯びるとして見ようではないか。為された作品は上から単色で塗りつぶしたような色合いではなく、無数のグラデーションを交えた、しかしそれでいてひとつといえるような、そういう色調であるだろう。


 その色彩を、視ること。目を、凝らすこと。
 

 
[PR]

by todoroki-tetsu | 2012-08-28 21:01 | 運動系 | Comments(0)

<< 2012・8・23の各紙朝刊、... 2012・8・27「毎日」夕刊 >>