2012・8・23の各紙朝刊、別名「『運動』もしくは『問題』について」(その三)

 2012年8月23日の「読売」朝刊で、僕がもっとも強い反応を示したのは「編集手帳」であった。落語「百年目」を下敷きに、原発の「かけがえのなさ」を語る。着想と構成はなるほどそれなりのものだろうが、さて、「百年目」はそのように解釈出来る噺であるだろうか。


 この演目は、桂米朝師をして「もっとも難しい」と言わしめた噺であり、演じ手にもよるだろうがやはり名作であり、大作である。笑いの大きな噺ではなく、商家を舞台に人情の機微が語られる、そんな趣だ。以下、米朝師の口演を念頭に置いて思考を進めていくが、僕は何度となく繰り返し聞いてきたし、商人のはしくれとして同師の「千両みかん」同様、ことあるごとに手がかりを求めてきた噺でもある。


 商家の番頭が、丁稚や若い衆に手厳しい叱言を口にする場面が幕あきだ。ずいぶんと厳しい、杓子定規に見える番頭。その実はなかなかに粋でお茶屋遊びは手慣れたもの。その筋ではなかなかに人気のある様子だが、旦那にバレてはいけないと用意は周到。得意先を回るという口実で脱け出した番頭は、舟遊びを兼ねた花見へと、たいこもちともども繰り出していく。


 酒も入り、興に乗った番頭だが、ふと花見の先で旦那と出くわしてしまう。あわてて店に帰った番頭は「頭が痛い」と早々に床に入る。旦那が帰ってくるのはそのあとだが、番頭の様子を聞いてかえって気遣いを見せる。


 この一晩の番頭の苦悩。もうじきのれん分けであるというのにえらい失態をしてしまった。どんなお叱りをうけるか判らない。逃げ出してしまおうか。いや、ひょっとすると許してくれるかもしれない。いやいや……と一晩まんじりともせずに過ごす。


 翌朝一番の描写は、冒頭の小言との対比と相まってなんともいえないおかしみがある。口演に譲ろう。


 さて、いよいよ旦那から呼び出しがくる。


 どんな小言が出てくるかと身構えている番頭。「お前さん、『だんな』という言葉がどこから出てくるか、知ってなはるか」と、先だって寺方から聞いたという話を聞かせる旦那。


 ここの部分を「編集手帳」は取ってきているのだが、簡単に記しておくと、赤栴檀(しゃくせんだん)という立派な木があるが、その周りには南縁草という汚い草が生える。これを刈り取ってしまうと、赤栴檀は枯れてしまう。南縁草は赤栴檀の枝からこぼれ落ちる露を得て生息し、枯れた南縁草は赤栴檀にとってまたとない肥やしとなる。寺と檀家はこのようなものだ。赤栴檀の「だん」と南縁草の「な」で「だんな」という……。


 旦那が赤栴檀だとすれば、南縁草は番頭。しかし、「店に出ればお前さんが赤栴檀じゃ。赤栴檀はえらい馬力じゃが、周りの南縁草がちょっとぐんにゃりしていやせんかいな」と、人をつかう難しさに思いをよせつつ、番頭にやわらかく教え諭す。自分にとっての南縁草である番頭に何かあっては、自分自身も困るのだから、と添えながら。


 柔和に見える旦那だが、厳しさはもちろんある。かたいばかりと思っていた番頭の見事な遊びっぷり。どこかで無理をしていやせんかと帳簿を全て自分で調べ、不正なことは何もないと確認する。自分の稼ぎで遊ぶのに何の遠慮があるか、商人はこういう時にカネの使い負けはするな、とむしろ発破をかける。
 

 ほかにも織りなすエピソードが多いが、ひとまずはこんなところで十分だ。


 目先のこと、あるいは見た目で、何かを切り捨てると、予期せぬことが起きる。ムードに流されるな、ということ? まあ、「編集手帳」の言いたいことはそんなことだろう。が、「百年目」そのものに、赤栴檀を「日本経済」とし、南縁草を「原発」と解釈するような、そういう余地はあるだろうか。


 赤栴檀は立派な香木であり、南縁草にも露を落とす。見栄えのしない南縁草はその露で生き、枯れて赤栴檀の肥しとなる。これはある種完成された関係性である。卑小な意味での「持ちつ持たれつ」ではない、もっと大きな、いかにも仏教らしいおおらかさが伝わってくる。それを語る旦那の器の大きさもまた素晴らしい。


 では、こうした完成された関係性が、日本経済と原発にはあるのだろうか。二百万人の雇用が云々、と編集手帳にはある。しかし僕は、「百年目」で旦那に感じ取ることの出来たスケールの大きさを、ここから読みとることは出来ない。恫喝にしか読むことが出来ない。


 確かに、原発にかかわる雇用の問題はある。それを否定しないし、そこが僕の「弱さ」でもあることは記しておいた。それを主張するのはいい。しかし、どうしても、その主張が「百年目」の世界とは重なり合わないのだ。強烈な違和感をぬぐい去ることが出来ない。
 

 赤栴檀と南縁草の喩は、旦那自身が我が身に置き換え、そして「店に出ればおまえさんがしゃくせんだんじゃ」と諭したもの。ここではお坊さんのお話を、我とわが身に引き寄せて考えているわけだ。しかも、南縁草は別の人から見れば栴檀でもあるのだ。そのような関係性を忘れてはこの噺は台無しなのだ。


 日本経済を栴檀とし、原発を南縁草とする、その趣向を考えだした当人は、コラムの中のいったいどこにいるのか。ほんとうにこの噺を聞いたのだろうか。回数ではない。何を思ってこの噺を聞いたのだろうかといぶかる。

 
 何かを言おうとするとき、様々な物語などに仮託することはあっていいし、どんどんやられてしかるべきだ。「誤読」は意義のあることだ。しかし、それにはおのずと限度と言うものがある。人間の噺であるところの「百年目」を、原発擁護に用いようとすることじたいが無理なのだ。

 
 もしどうしても「百年目」の世界観を引き付けたいのであれば、番頭を教え諭す、「店に出ればお前さんが赤栴檀じゃ」という言い方。この論法を原発に当てはめるしか術はない。原発はなるほど「日本経済」なるものの中心にいる者、電力会社の役員クラス、それらと利益を共にする者にとっては、南縁草でしかないかもしれない。だがしかし、原発の、その地理的な意味での周りで働き、生活する者にとっては赤栴檀なのだ。この連関の中に、自分自身を置いてみようと努力するしかない。

 
 何重もの下請けと、被ばく労働で成り立つ赤栴檀が、果たして露を落としていると言えるか。カネという露は確かに落とすだろう。しかし、それはほんの一部ではないのか。むしろ落とす露を最小限にして、「えらい馬力」を誇っているのだけではないのか。このままだと、赤栴檀=原発は枯れてしまいますよ。あくまで露を最小限にしか落とさないとするなら、南縁草はいつかは枯れる。いや、それ以前に、南縁草は生えなくなるでしょう。そのような教え諭しも一言添えておこう。

 
 これを「編集手帳」の失業者数云々と同じ「恫喝」と読まれては困る。「百年目」の眼目は、赤栴檀でもあり南縁草でもある立場、この二重性にある。この二重性を自覚してはじめて噺が生きてくる。自分だけが安全圏にいるかのような「日本経済」(を語る人間)に、「百年目」を借りる資格はない。


 原発を維持する側なら「このままだとよくない」と締めればよい。原発に反対するなら「そんな赤栴檀ならいらない」と言い放てばよい。

 
 ほんとうに原発を維持したいと思っているのなら、更に加えてどうしても「百年目」の世界観を借りたいなら、以上のような論法以外にはありえない。さらに言えば、下請け構造と被ばく労働という人の問題、そしておそらくは地域の貧困という問題を含まないあらゆる論法はダメなのだ。


 それは、原発に反対する場合にも言えることだろう。さてどうするか。ここが僕の弱点でもあることを繰り返し記しておく。



 
 
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by todoroki-tetsu | 2012-08-27 10:25 | 運動系 | Comments(0)

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