2012・8・23の各紙朝刊、別名「『運動』もしくは『問題』について」(その二)

 2012年8月23日付の各紙朝刊を引き続き読んでいる。


 「読売」では「悪い前例」(3面)という言葉が用いられているのが象徴的に思われる。社説も「禍根残す面会パフォーマンス」とある。この社説にも2面の政治部次長署名記事にも大阪市長の同じコメントが引かれているのは何か意味ありげだが、そこに深入りするつもりはない。


 社説の最後はこう記されている。

 首相の判断で原発を再稼働させたことで、電力危機が回避されたのである。引き続き現実的なエネルギー政策を推進すべきだ。


 ここでいう「電力危機」とはなんだろうか。電力が不足するかしないか、という意味だろうか。それとも、電力会社の「経営」の危機だろうか。

 
 原子力発電所が再稼働されたのち、火力発電所を止める余裕が出来たと聞く。今この時点でどの程度の火力発電所が止まり、また稼働しているのか、僕は知らない。が、「電力危機」という言葉の内容ははっきりさせてほしい、と思う。


 電力の不足も電力会社の経営も、どちらも結局同じ「危機」でしょう、という意見や考え方があったとすれば、それに対して僕は否と答えるほかはない。別々の問題を一緒くたにしちゃいけない、という単純な理由による。もちろん、別々の問題が考え抜かれた末に、ひとつの問題として観念されることはあり得るだろう。しかし、まだその時ではないように僕には思える。


 もうひとつ判らないことがある。ここでいう「現実的」というのは何のことか。僕にとっての現実は、繰り返すが、子どもの姿の見えない町の様子であり、閉じられて久しいと思しきスーパーであり、錆びついたレールの映像である。少なくとも、これを塗り替えなければならないような「現実」を、この文章から感じ取ることは僕には出来なかった。


 政治部次長署名記事のタイトルは、「『声なき声』に耳を傾けよ」とある。官邸前に集まるひとびとを「声ある声」とし、「声なき声」を称揚するのは、やはりひとつの立場であるだろう。原子力発電、という問題に対するスタンスであるだけでなく、こうした直接行動に対するまなざしがあぶり出される。


 逆に問われるのは、自分(たち)が賛意を表するような事柄に対し直接行動がなされた時に、同じ立場からものが言えるかということだ。原発再稼働を求める人びとが20万人集まり、その結果首相が会おうとなった時、同じように「『声なき声』に耳を傾けよ」と言えなければ嘘だ。
 

 「賛成か反対かも大事だが、外部から論評するのか、それとも、自らの内部をえぐるものとしてとらえられているかどうか。そのほうが、はるかにたいせつだ」。そう僕は何度でも繰り返す。自分の内部をえぐるとは、他者の声にどう向き合うか、という問題であるだろう。他者を利用してもならないし、他者に利用されてもならない。


 しかし、この日の「読売」で、僕がもっとも強い反応を示したのは「編集手帳」であった。項を改める。
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by todoroki-tetsu | 2012-08-26 14:39 | 運動系 | Comments(0)

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