「2012・8・22、14:00-14:30」あるいは序論

 僕は本屋に勤めているが、今の仕事は裏方仕事で、表には出ない。バックヤードで本を運んだり、事務処理をやったりする。パソコンに向かうことも多い。データをチェックしたり、ネットでニュース速報をチェックしたり、時として、仕事をしているフリをしてだけのこともある。


 ネットのニュースの類を、そう使いこなせちゃいないけれど、わりあいにこまめに見ていることは確かだ。そんな普段通りの時間が過ぎていた8・22の水曜日の午後のことを記しておきたい。


 別に狙ったわけではない。たまたま、14:00少し前に「首相、反原発団体と会見」(精確な文言は忘れた)といったヘッドラインが目に入ってきた。ああ、今日だったか。延期になったという話は覚えている。なんだか今日になったという話を昨日見た気もする。


 最近金曜日には仕事の都合で官邸に行っていない。忙しくてデモも行っていない。どちらも、ここ一ヶ月くらいのことだが、もう、うすぼんやりとしているのかもしれない。自分の感覚に、キレがなくなっている気もしてくる。


 中継されるという。さすがに勤務時間中に動画を見るのははばかられる。たとえ音を消しても。しかし、それまで何の気にもしてなかったクセに、いざいまやっているとなると気になってしょうがない。僕の目にした記事の下の方には、TWITTER検索に飛ぶような画面があって、「会見」と「反原発」だったか、ふたつくらいのキーワード検索の結果が見られるようになっていた。


 様々な言葉が流れてくる。「誰誰がいる」「なんであいつが」「頑張れ」……。


 それらの言葉を、精確にはきっと誰かが調べているに違いないし、多分、何かの方法で再現することも出来るだろう。検索キーワードを変えればもっと色んな事が見えてくるに違いない。しかし、職場で、こっそりと、目を離さずに見ている僕には、わりあいに「離れた」距離からの言葉が多く流れているように思えた。

 
 「会見の最中は冷房を切れ」「しゃべりすぎ」「首相に話させろ」「茶番」「ガス抜き」「変な前例をつくるな」「態度が悪い」「国民なんてお前が言うな」「頬杖つくな」「感情的」……。

 
 悪意もあるだろう。善意もあるだろう。軽い気持ちで記された言葉もあれば、考え抜いた言葉もあるだろう。


 それらの言葉を見ながら、会見の場でどんなことが話されているのか、想像していた。ひとりひとりが、どんな顔でいるのか、思い描こうとしていた。頷かなかった首相の顔は、想像できた。他の皆さんの顔は判らない。激情に駆られた人もいるかもしれない。グッとおさえた人もいるかもしれない。


 その時の映像や言葉は、ちょっと調べれば精確に追うことが出来るだろう。けれど、今僕がしたいのはそんなことじゃない。そんな万人にとってたいせつなことをやるにふさわしい人は山ほどいるだろう。

 職場のパソコンを、いつのまにか食い入るように見ていた僕は、画面に流れる言葉を読みながら、いったい何を見ていたのか? 考える価値があるのはここだ。


 どんな人が会見の場に臨んだのか知らない。学者さんもいたようだし、おそらくはデモや官邸前でお見かけしたような人もいるのだろう。面識はない。けれど、この場に臨むまでのあいだ、相当な準備をしてきたに違いない。全ての中継を入れたのは画期的なことだろう。これは首相側にとって不利なだけではない。原発に反対する側(「反原連」という言葉はどうもしっくりこない。その理由はどこかで述べる)にとっても不利なのだ。オープンにすれば、自分たちのアラだって見せてしまうのだから。


 それでもなお、あの場を「開かれた」ものにしようとした努力に、まずもって深い敬意を表したい。野次馬的なコメントを見ながらまず思ったのは、そういうことだった。


 「一方的にしゃべりすぎ」という反応についても、これはやはり何らかの作戦というか、意図があったのだろうと想像するのは自然であった。20分という決められた枠、そこで主導権を握るにはどうするか。先手を打て。兎に角訴えよう。予め用意してあった文書を読み上げたのか、考えた上で放たれた言葉だったのか、いったいどういう言葉だったのか、僕は知らない。けれどその時、あの場に臨んだ皆さんは、自分自身であると同時に他の誰かでもある、そんな言葉を発していたという感覚だけが鮮明だ。


 感情的だと嗤うことは出来る。そんなものはかえってマイナスだということも出来る。それらは、一面では事実だろう。否定はしない。では聞こう。主義主張の違いはさておく。お前に代弁されたくはない、という気持ちもさておこう。そういう人は自分にとって切実な問題に置き換えてくれればよい。何かをほんとうに訴えようとして、「偉い人」に対峙したことはあるか。その場にはいない、おおぜいの人の思いや声を、託されてやってきたことはあるか。その時、お前はどのように振舞い得たか。「ここにバラがある。踊れ」。

 
 僕は、ある。妙に声が上ずってしまったこともある。変に卑屈になってしまったこともある。兎に角強気に出ようと虚勢を張ったこともある。いずれも、心底緊張することであった。僕には、彼女/彼らを嗤うことは出来ない。遠いところから何かを言うことは出来ない。代弁という表現もしっくりこない。ただ、その人の口から発してはいるが、その人だけのものだとは言えない、そういう言葉は確かに、ある。


 結果として10分おして終ったその会見の、終盤近くから、少しずつ会見に臨んだ皆さんへの「お疲れさまでした」「ありがとう」といった言葉が目立ったようだ。そうした人はツィートしている暇もなく、真剣に見入っていたに違いない。

 
 しかし、賛成すなわち善ではない。考えようによっては、より一層危険であろう。賛成か反対かも大事だが、外部から論評するのか、それとも、自らの内部をえぐるものとしてとらえられているかどうか。そのほうが、はるかにたいせつだと僕には思われる。
  
 
 何度となく考えては挫折し、少し進んでは立ち止まりしてきた「運動」あるいは「問題」について、ふたたび挑戦しようとしている、これはその矢先のことであった。
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by todoroki-tetsu | 2012-08-25 00:28 | 運動系 | Comments(0)

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