「かつて、ぶどう園で起きたこと」再読その十六

 「かつて、ぶどう園で起きたこと」、最終セクション8:「2010年、ニッポンの春」に入る前に、もう少し逡巡というか、補助線を引いておこうと思う。

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 ハックルベリ・フィンが、「よし、それなら、オレは地獄に行こう」(角川文庫版、大久保博訳、第31章)と決意をした、その過程について考えてみる。


 ジムが捕まった詳細を、軽妙な嘘を交えながら聞きだしたハックは、筏の中の小屋で考える。ジムはせめてなら故郷に返してやりたい、いやそれはミス・ワトソンの怒りを招くだろう、さて……。逡巡するうちに、「おいらは突然、ハッと気がついた。この世にはプロヴィデンス(神さま)のはっきりとした手があって、それがオレの頬をピシャッと叩いたんだ」。恐ろしくなって震えるハックは、祈ろうと試みるが、うまくいかない。「人は、ウソを祈ることはできねぇ」ことに気づく。


 そこでハックが思いついたのは、手紙を書くことだった。「おいらの気持ちは、そう考えたとたんに、羽根のように軽くなった」。しかし、ワトソンさんへジムの居場所を知らせるその手紙を書き終えて、ハックは再び考える。思い起こされるのはジムとの楽しい思い出だ。「今ではおいらがたった一人の友だちだ」と言ってくれたジム。

 
 考えながら「ヒョイとあたりを見まわ」すと、さっき自分の書いた手紙が目に入る。再び手に取る。「体はブルブルと震え」る。そうして「心の中で」、「よし、それなら、オレは地獄に行こう」と口にする。「恐ろしい考え」であり、「恐ろしい言葉」だとハックは自覚している。その上で、「口から出たままにしておいた」。ここまでくれば、あとはハックの本領発揮、いかにジムを取り返すか、その算段に奔走することになる。


 さて、この過程から、何を学びとることが出来るだろう。


 第一に、「人は、ウソを祈ることはできねぇ」ということ。数々の嘘を「吐く」ハックでも、嘘を「祈る」ことは出来ない。ここに少年らしい潔さを見ることは不当ではない。嘘は吐いてもいい、でも、嘘を祈っちゃいけない。ここでの祈りは、信仰を持たない人間の無礼を承知で言わせてもらえば、「集中」(大江健三郎)なり、他の言葉で置き換えてもいいだろう。ほんとうにここぞという時、何が大切なのか。ハックはそこを考えようとしている。実際、体が言うことを聞かないというのが象徴的だ。この正直さは、少年固有のものだろうか。いつの間にか失われているように思えるとするならば、それはただの思い込みではないのか。


 第二に、ハックが取った手段が「書く」ことであったということ。心の中での問答。口にして祈ることが出来ない困難。その代わりに、手紙を書いてみたのだった。口にすることが出来ない言葉も書くことなら出来る、と見ることも出来るし、考えるために書く、と見ることも出来る。どちらもたいせつな見方だ。書いてみなければ決断出来なかったのだ、ということも出来るだろう。「読むために書く」「書きながら読む」という感覚と共にある今の僕には、とにかくハックが書いてみたということに、限りない敬慕の念を覚える。


 第三に、口には出来なかったが書いてみることが出来た言葉と、ジムとの思い出との対比。どれくらいの時間を掛けたのか知らない。けれど、少年にとっては決して短絡的なものではなかっただろう。たとえ短い時間であったとしても、その密度において。その末の、決断。書いた言葉をハックは破り捨てた。その時に心の中で発した「恐ろしい考え」と「言葉」を、「口から出たままにしておいた」。これもまた、潔い。書いた言葉は、それはもちろん強制された言葉ではなく、ハックが今までに受けてきた教育だったり説教だったりであるだろう。ある程度は内面化もしていたろう。それを書くことで外部化し、そして、捨てる。新たな決意に向かう。ハックが再びこのように迷うことがあるかどうか、知らない。しかし、少年時代にこうした時間をかけて考えた末にひとつの決断をしたという経験は、長い人生のどこかに影響しないはずはない。


 ハックの物語、そして特にこの部分が、文学者のみならず多くの読者がどのように読んできたのか、僕は知らないし、別段研究するつもりもない。しかし、何度か繰り返し読んでみて感じるのは、ハックの正直さと潔さだ。ハックは何も難しいことをしていない。ただ自分に正直に考え、震え、書き、思いだし、そして決断した。誰もがやろうとすればやれないことではない。ただ正直でありさえすれば。その正直さがいかにも少年時代に特有のものであったとしても。


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 「叡智の扉は万人にひらかれている」――そんなような言葉を若松英輔さんの講演で耳にした。ここだけ取り出すと何のこっちゃと思われるかもしれないが、若松さんの講演や書いたものに少しでも触れられた方は、さほど違和感なくこの言葉を感じ取ることができるだろうと思う。


 僕は、叡智をハックに置き換えることに、ためらわない。


 ……ここまで考えてようやく、浅尾評論に入っていくことが出来る。
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by todoroki-tetsu | 2012-08-23 21:39 | 批評系 | Comments(0)

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