「かつて、ぶどう園で起きたこと」再読その十五

 浅尾大輔さんの評論「かつて、ぶどう園で起きたこと」(「モンキービジネス」第10号所収)も、残すところあと1セクションとなった。


 この清冽で気高いセクションを、読みながら書く/書きながら読む、その前に、今一度最初から読んでみる。


 読み遺していることはいくらもある。聖書に関する記述は特に鬼門のようだ。「悔い改めた盗賊」のイメージは、確かにヴェイユとも重なるだろうことは理屈では何となく判るのだが、感じ取るまでにはいかない。ヴェイユとスピードとの関係も、ひとまずは僕なりには考えてみたけれども、どうもまだ無理からに理屈で納得しようとしたきらいがある。

 
 ……まあ、いいだろう。おそらく長く付き合うテキストだ。今いっぺんに判ろうとする必要もない。職場で何気ない会話を交わしている時に、あるいは何かに切羽詰まった時に、あるいはあやうく転落しそうなホームを歩く時にふと、思い起こすだろうから。頑張って考えることはたいせつだが、背伸びをしたところでしょうがない。


 さて、もういっぺん最初に立ち返ると、改めていっとう最初のセクションの存在感が際立つように思われる。

 
 「ロスジェネ文学」とは、「溜めのない世代」の物語で、おそらく「神を待ちのぞむ」。すなわち、若者たちの貧しさと不当に損なわれているという心象のスケッチは、この世界が――私たち人間こそが、もっとも信じるに値しない被造物であるという疑念をもたらして、ふたたび「神の問題」と向き合わせる。



 「私たち人間こそが、もっとも信じるに値しない被造物であるという疑念」。これは「嘘」という言葉でなんどか言い表されてきたことであった。同時に「嘘」における可能性もまた同時に、見据えられた。


 ふと、思う。浅尾さんは、文学者として、「人間」を信じてはいないのではないか。いや、「人間」の「理想化」を徹底して排除しようとしているのではないか。


 実は当初、この評論の最後のセクションから得られる色鮮やかな緑のイメージを手がかりに、大江健三郎さんが講演・評論の場でしばしば表明する「人間」への全幅の信頼と重ね合わせて、この感想文を締めくくろうかと漠然と考えていたのだった。しかし、読み進めるにつれ、そしていよいよ最後のセクションに入ろうとするにあたって、いや、そうした心象ではどうにも読み誤っているのではないかという気がしてくるのだった。

  
 なぜか、鈴木邦男さんの言葉が思い出される。「左翼は人間を理想化しすぎる。だからこそ反動も大きい。人間なんてもともとダメなもんでしょう」といったようなことを、5/13のシンポジウム「当事者が語る連合赤軍」で語っておられたのだった。

 
 平等な分配がありうる、という「希望」の型を「資本論幻想」と名付け、「人間という変数の閾値が少しも勘定に入っていない」と批判し、「主人公たちが人間の連帯を安易に信じていない」ことをもって「ロスジェネ文学」を高く評価する浅尾さんの言葉は、この鈴木さんの言葉とそうかけ離れた位置にあるとは思えない。


 しかし、ここで僕は安易に「右」だの「左」だのと結びつけたり持ち上げたり腐したりするつもりはない。もうひとつの参照項が同時に思い起こされるからだ。

 
 「ロスジェネ」創刊号に、萱野稔人さんが寄せた小論「なぜ私はサヨクなのか」は、今読み返しても十二分に面白い。萱野さんはこう述べておられる(同書P.62-3)。

 
 左翼はけっして人びとの実存の問題や価値観に――左翼の立場から――口をはさんではならない。もっというなら、人間の意識から問題をたてないという左翼の方法からいけば、そもそも左翼が生き方とか、生存の美学といったものを教えることは無理というものだろう。

 (略)

 ……生き方や実存の問題は左翼の守備範囲とはまったく異なるオーダーにあるのだ。だから左翼も、左翼じゃない人も、左翼の問題圏とは別のところで、それぞれ生き方を学び、生きるうえでのよろこびや倫理を確立し、実存の問題を解決しなくてはならないのである。

  

 そう、「ロスジェネ」は、「右と左は手を結べるか」のキャッチコピーで世に出たのだった。手を結んだその先にあるだろうものを、編集長自らが指ししめしているというのは深読みに過ぎようか。
 
 
 さらに連想は飛ぶ。参照すべきは大江さんというよりも、「人間古今東西チョボチョボや」と言った小田実さんではないのか。「『身銭を切る』ことから」より(『世直しの倫理と論理』、下巻、P.214)。


 問題は、人間はインチキである、自分をふくめてふつうの人間はインチキさにおいても徹底し得ないほどインチキであるとみきわめておいて、そこで開きなおるのではなく、さて、そこで、どうするのか、ということだと思うのです。

 
 この文章が浅尾評論の中にあっても違和感はあるまい。


 人間を理想化しない。実存や生き方に左翼の立場から口をさしはさまない。とすると、小田実―浅尾大輔というラインはおのずと引かれるように思われる。浅尾さんが長篇小説を物した時、それは『HIROSHIMA』のような作品であるかもしれない、と夢想する。


 ところで、「神の問題」と向き合うとはどういうことだろうか。そのたいせつな手がかりは、最後の最後で触れられることだろう。
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by todoroki-tetsu | 2012-08-20 23:09 | 批評系 | Comments(0)

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