「かつて、ぶどう園で起きたこと」再読その十四

 7:「『あらかじめ』に逆らう」を引き続き。


 私たちに忍び寄る「あらかじめ」に対し、「嘘」をもって逆らう。「やられたらやり返せ」ではない世界へ、「新しい交換形態」へ。では、嘘をつけるというのはどういうことか、主体は誰か、という思いを重ねながら読み進めてきたのだった。

 
 何を守るのか。誰を生かすのか。そして、誰と共に……。そうした視点が、ぜひとも必要に思われる。 


 「仲間」という言葉だが、「ヤンキー」をめぐる言説(「分析」とか「論」とか名付け得る状況なのか、僕には判らない)などを考え合わせると、少しばかり用法に注意せにゃあいかんという気がしてくる。言葉だけが先行しないように注意しておこう――ついでながら記しておくと、「ヤンキー文学」なるジャンルが成立するとした場合、その中には浅尾さんの「家畜の朝」は必ず含まれなければなるまい、と思っている――。


 ヴェイユの根は、おそらくアメリカの少年たちにも共有されている。しかし彼らの場合は、「嘘」の花の大輪を咲かせることによって、お互いを励まし合えたのだと指摘できる。


 前にも引いた部分だが、この一文にある「彼ら」や「お互い」という言葉に見合うような存在と関係性を、ひとまずは「仲間」と考えたい。そこに、いわば決まり文句に過ぎない「本当にみなさんのものである」というハックの言葉から得られるイメージを付け加えよう。

 
 閉じた「仲間」ではないのだ、ということだ。それは「仲間」と自称する自分たちのあいだだけでなく、仲間を外から見る場合にも、「あいつら」と「自分」は違うという目で見ないように努めるということだ。


 そのように考えた上で、このセクションの最後に記されるトムの物語について読み進めてみる。

 
 「復讐」に燃えさかるインジャン・ジョーと、「誰が外にいて、自分が囚われの身から解放されるのを待っていてくれるか」をわかっているトムの対比は見事だ。ジョーにあってトムにないもの。しかし、浅尾さんの注記を忘れないでおこう。


 しかしそれ(=トムをとりまく「外部」の寛容)さえも、トムの「嘘」と等価交換されたものだということも忘れるべきではない。



 不穏な影が、僕の脳裏をかすめる。してみると、「嘘」もまた、「能力」であるのか、と。生き延びるための「スキル」であって、それなしにはうまくいかないどころか、「うまくいかなくても仕方がない」「努力しなかったのだから報いは受けて当然」と思われるような、そういう「能力」「スキル」が増えるだけではないのか……。

 
 故のない被害妄想であろうか。僕の感じる不安を、理屈で説得してもらえるならこんなありがたいことはない。しかし、いかなる理屈であれ、不安を忘れることはあっても、根源を断ち切ることは出来まい。おそらく、先に見たような意味での「仲間」を常時意識し、それと照らし合わせて考えていくこと以外に、不穏な影を解消する道はないのだ。

 
 決意だの覚悟だの実行だのに感銘を受けるのは、悪いことじゃない。だけれど、それは何を守るのか。誰を生かすのか。そして、誰と共に。自分の読み方がたとえ誤読にしか過ぎないとしても、そこにこだわること。たたかいや威勢のよさに「だけ」酔いしれるな、と自分に言い聞かせよう。


 物語の最後に、執拗に描かれたインジャン・ジョーの苦悶は、トウェインなりの旧世界への葬送であったにちがいない。すなわち「等価交換としての復讐」を超える世界の開示――新しい交換過程に貫かれた世界へのいざないである。


 「新しい交換過程に貫かれた世界」は、どこかに扉が隠されていて、そこを見つけさえすれば、あける方法さえ分かれば、すぐさまバラ色の世界がひろがるといったものではない。その世界は、おそらく今自分のいる世界と違ったところはほとんどないだろう。ほんのちょっとしたことが、違うだけのことだ。少なくとも同時代を生きる私たちにとって、一夜明けての劇的の変化なんてことはそうそう、ない。

 
 そのほんのちょっとしたこと、そのきっかけはそこかしこにあって、それをどうこうするのは自分たち次第なのだ。
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by todoroki-tetsu | 2012-08-19 13:04 | 批評系 | Comments(0)

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