「かつて、ぶどう園で起きたこと」再読その十三

 7:「『あらかじめ』に逆らう」の前半部分では、生き延びるための「嘘」、奪われようとするものを守ってやれる「嘘」、というところにまでたどり着いた。では、そのような「嘘」をつけるのはどういう人間なのか、と考えるのが後半である。


 作者トウェインは、「嘘」をつく行為が、モーゼの十戒に背くことを承知でハックに語らせている。その源泉が不信と孤独にあること――私の考えでは、「神」にすら見捨てられているという感覚にあることを踏まえたうえで、ハックの「嘘」こそが、黒人ジムの尊厳を守る世界へといたる大いなる助走となったことを教える。


 
 さて、「あとの者は先になり、先の者はあとになる」というのが「世界が滅びる際のルール」であったわけだが、ハックはあとの者か、それとも先の者か。ヴェイユのイメージに重ね合わせようと試みるならば、先の者であるように思われる。不信と孤独の極限で、すべてを取り返す「嘘」をつく。しかし、労働に自らを重ねながら、最後には死にいたったヴェイユと、労働からも排除されたハックとの間には、決定的な違いはないのか。プロレタリアートとアナーキスト? いや、まずは浅尾さんの言葉を聞こう。


 私の経験したところでは、ハックの形象は、現代ニッポンの「社会的ひきこもり」の原型のひとつに数えられるのではあるまいか。

 すなわち労働力の再生産過程から排除された者だけが、ときに「死」を賭けて、「関係のない人たちや知らない人たちの不幸」にふれると「恐ろしい苦痛を感じ」「魂がばらばらに引き裂かれ」たのち、臆病な心を突き破って圧倒的な優しさの行使にいたるという――。

 ヴェイユの根は、おそらくアメリカの少年たちにも共有されている。しかし彼らの場合は、「嘘」の花の大輪を咲かせることによって、お互いを励まし合えたのだと指摘できる。


 
 「私の経験」と呼ぶものに何が含まれているのか、他者である僕は想像するしか手立てはない。しかし、その中には2009年2月に行われたシンポジウム「女性と貧困――生き抜く道は、どこにあるのか」(『ロスジェネ 2009別冊』)における、いちむらみさこさんとの接触が含まれているだろうと想像するのは、さほど突飛なことではないと信ずる。ここでの浅尾さんの発言を引こう。

 いちむらさんが伝えた路上の世界には、確かに、現在の賃労働者には足りないものがある。現代の労働者の世界で失われたものが、ホームレスの世界にあるんだと言われて、そういうかたちで新しい価値観を提示されたことは、率直に言って、とても新鮮で、これから大きなテーマとして議論されるべきだと思いました。


 ことわっておくが、「社会的ひきこもり」と「ホームレス」を結び付けようとか、いちむらさんをそんな不遜な文脈に落とし込もうとか、そういうことを言いたてようとして引いたのではない。僕自身この会場にいて、あの時、「賃労働でメシを食っている自分は、じゃあ、どうすりゃあいいんだろう?」と考え込んでしまったことを覚えている。僕はそのまま思いだしたように考えたり考えなかったりしてきただけだ。その間に、文学者・浅尾大輔は、認識を拡げようと努力をしてきたのだ、と思う。


 「確かに、現在の賃労働者には足りないものがある」と、労組専従をやってきた人間が口にすることの意味は、重い。下手すれば自己否定になりかねないのだから。


 その重さを、いまだにはかりかねるけれども、何とか近づこうと試みる。そのために、賃労働者である自分が、ハックの物語を読むことの意味を考えてみよう。


 ハックなんて所詮は風来坊の浮浪児で、ロクなやつじゃない。けれど、そうした奴がどえらいこと=ジムを救いだすことを、やりぬいた。浮浪児だから出来たのさ、と賃労働者の俺はうそぶいてみる。けれど、ハックは確かにそれをやったのだ。まず、そのことは認めよう。それが大したもんだと認めよう。あいつにはそれだけの時間があったのさ、こちとら朝から晩まで働きづめなんだからな。そういったところで、やっぱりハックのやったことは大したもんだ。ハックと俺は違うのさ、というよりも、ハックはすげえや、と素直に思う方が、潔いってもんじゃないか。だって、ハックルベリの物語は、こう締められているんだから。


 これでおしまい。

 本当にみなさんのものである、ハック・フィン。



 ヴェイユを、労働を抜きに語ることが出来ない思索家だというのは多くの人が認めるであろう。そのヴェイユと、ハックを「根」が「共有されている」という言葉でズドンと串刺しにする力、これに起因する心象は、強い影響を読む者に及ぼす。

 
 賃労働者であるか否か、といった問題ではない次元。さりとてなんだか急に「人間そのもの」みたいなところにもいかない。本当に、こう言う他はない、「生身の人間」の根源をえぐり出すような、そういうイメージが湧きおこってくる。戦線が広大にひろがっていくのを感じる。


 とはいえ、ヴェイユが嘘をつけるようになるとは思われない。ハックにおけるような意味での「励まし合う仲間」は、彼女にはいなかったのかもしれない。彼女は学生時代ボーヴォワールに向かって「あなたは飢えたことのないような顔をしているわね」と言い放ったというが、確かにヴェイユは孤高であったのかもしれない。けれど、ハックの物語を、浅尾さんのような読み方でもし読み得たとするならば、嘘は自分では決してつけなかったとしても、嘘のたいせつさは、理解出来たかもしれない。死の手前で、踏みとどまったかもしれない。

 
 自分のたたかいとあなたのたたかいは、決して違うものではないということ。嘘をつくことが得意な人はそうでない人を、嘘をつくのが苦手な人はそうでない人のことを、お互いに想像しあうことは出来ないか。少なくとも、否定先にありきで考えることは、努力すれば止めることが出来るだろう。ハックは「みなさんのもの」なのであり、その「みなさん」に僕が含まれていないと考える理由はどこにもないのだから。


 賃労働者として言えるのは、このあたりがいまのところせいぜいか。 
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by todoroki-tetsu | 2012-08-16 23:07 | 批評系 | Comments(0)

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