「かつて、ぶどう園で起きたこと」再読その十二

 少し長く中断してしまったが、浅尾大輔さんの「かつて、ぶどう園で起きたこと――等価交換としての文学(ファンタジー)」(「モンキービジネス」第10号)を再開する。セクション残すところあとふたつ。しかし、じっくりといこう。


 「ロスジェネ文学」の運命は、「資本」に反逆し、「嘘」をつき返し、唾を吐く人間の再構築にあることは、すでにのべた。

 私の考えでは、「あらかじめ」に逆らう文学の起源は、ドストエフスキーのロシアにではなく、マーク・トウェインが描いたアメリカに潜んでいる。すなわち『ハックルベリ・フィンの冒険』である。



 7:「『あらかじめ』に逆らう」は、こんな書き出しで始まるのであった。大江健三郎さんが幼少期に愛読したというこの物語のキモは、「よろしい、じゃあ地獄へ行こう」であるとすっかり信じ込んでいる僕は、浅尾さんの読み方に半ば呆然としつつ引き込まれる。一例を引こう。

 
 たとえば「神」は、人間の「死」を無言のうちに天国へと回収するだけだが、私たちは「死」を奪い返すことができる。ハックは、少女エミリーンの死を「神」の手から奪い返し、畏れおおくも弔い直そうとする。その理由は、幼いころから近所で弔われる死者のために詩を「捧げ物」にしていた彼女が亡くなったあと、彼女のために詩を書いてあげる者がいなかったことを「公平じゃない!」と感じたからだ。


 「私たちは『死』を奪い返すことができる」! しかも、ここに悲壮感はないことがたいせつに思える。ヴェイユがもし同じ局面にあったら、あの写真で見られるようなほのかな微笑は消え失せ、悲痛な祈りが書きつけられるだろう。

 
 私の考えでは、おそらくヘミングウェイは、『ハック』第三十一章以前にまき散らされた「嘘」のなかにこそ、この世界を反転させるアメリカ文学の起源を見ている。なるほどそれは、ヴェイユのいう「復讐とは別次元の均衡」へと続く、もうひとつの道かもしれない。人間の「嘘」によって積み上げられた「虚構」には、「等価交換としての復讐」とは別の、新しい交換過程がありうるということだ。


 この記述は、『悪人』の作品分析から得られた認識を引き継ぐものであるだろう。

 このようにしてニッポンの青年たちは、まさに見えない敵によって追い詰められている。確かなことは、資本は「嘘」にまみれており、その是正に振り回される私たちもまた「嘘」をつく人間・被造物であるということだ。
 


 しかし、「嘘」ゆえに殺し/殺された人間もいるだろう。そもそも「嘘」をつけない人間もいるかもしれない。当たり前のことだが、「嘘」ならいいやってもんじゃない。生き延びる「嘘」でなければならない。したたかな「嘘」でなければならない。奪われようとするものを守ってやれる「嘘」でなくちゃいけない。


 そういう「嘘」をつけるのは果たしてどういう人物か、という問題があらわれてくる。




 
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by todoroki-tetsu | 2012-08-15 20:10 | 批評系 | Comments(0)

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