「ラ・マンチャの男」と「誤読」

 ミーハーでいささか恥ずかしいのだが、「ラ・マンチャの男」と幸四郎丈の「勧進帳」はほぼ必ず足を運ぶようにしている。居住地の近辺で公演のある場合、という限定はつくのだが。どちらも、まあ、いかにも男が好きそうな演目ではある。だが、こればっかりは致し方ない。


 さて、「ラ・マンチャの男」。そんなことでもない限り帝国劇場なんざ足を踏み入れたりはしないのだが、おそらく今日が三度目か四度目だ。早めに行ってベトナム珈琲を頂くのも恒例である。こうした定番パターンをつくっておくと、以前はどんなことを考えていたか、とか、そうしたことが思い出しやすくてなかなかに面白い。年をとるのも悪くない、と思うのはこういう時だ。


 舞台を見るのは決して嫌いではない。けれど、どこがいいとか悪いとか、あんまりそういうことは判らない。ひとりで行くからかもしれない。観る前も観た後も、ひとりであれこれ考えてみるだけだ。


 「ラ・マンチャの男」を観るこの数回、どうしても脳裏をよぎる男がいる。かつて首相を務めたその男は、数々の「改革」を、その片腕と目される「経済学者」とともに行った。彼の好むミュージカルが、「ラ・マンチャの男」であったと知ったその時から、どうあってもその姿が観劇中に思い浮かんでしまうのだ。


 かつて学費値下げの国会要請の時に、議員会館で一度だけすれ違ったことのあるその男は、決して大柄ではなかった。しかし、その鋭い目つきは、「食えない奴に違いない」と二十歳そこそこの学生にも判るくらいのものではあった。

 
 セリフを丹念に追えば、彼が勝手にたたかいに酔いしれているだけだということくらいは言えるだろう。山場のひとつである「あるべき姿」のくだり、その前に語られるのは貧しさであり苦しさであり、死であるのだから。


 そうしたことを取り上げるのはたいせつなことだ。それは、加藤周一さんが陸軍省情報部の「万葉集」の読み方を批判したのと同じような重要性を持つ(『「日本文学史序説」補講』、かもがわ出版、P.47)。

 
 しかし、それだけではダメなように思うのだ。その男の解釈は、要するに「誤読」といえば「誤読」である。しかし、「誤読」は時として「正読」を超える。そこに作品の生命力が宿るといっても過言ではない。吉本隆明さんの言葉を繰り返そう。「文句なしにいい作品というのは、そこに表現されている心の動きや人間関係というのが、俺だけにしかわからない、と読者に思わせる作品です」(『真贋』)。


 これは必ずしも誤読を勧めるようなものではない。しかし、紙一重のところをついている。

 
 正しい読み方、ということでふと思いついたのは、社会的というか、資本主義批判というか、そういう文脈を持ち込むこと。例えば今読み進めている「かつて、ぶどう園で起きたこと」はそうした視点を有したすぐれた批評である。けれど、それは非常に練って練って練り上げられたものである。素人が下手に手を出せばともすると、ふた昔前くらいにあったという、やれ階級的視点がどうだとか、帝国主義に対するどうのこうのだとか、何だか紋切り型の口上を並べることで終始してしまいそうなおそれがないでもない。


 じゃあ、どうするか。

 
 「誤読」には「誤読」で対抗するしかないんじゃないか?

 
 あの男は要するに、「敵」とたたかう自分に酔いしれたかっただけだろう。ならば、そうではない読み方をしてやろうじゃないか。


 ドン・キホーテがなぜ狂わなければならなかったか、そこから始めてみてもいい。ただ騎士道物語を読み過ぎたたわけものではない。騎士道物語に傾注しなければならないほど、この世が嫌だったのだ。それは正視するのを避けたからではない。正視するあまりに気がふれたのだ。


 「狂わなければ見えないこともある」(鴻上尚史「ピルグリム」)といわんばかりに、キホーテの目に見えるものは常人の目から見れば荒唐無稽だ。しかし、ただひとつ、狂気によってしか見えなかったものがあるとすれば、それはアルドンサの中にドルシネアを見たことではなかったか。アルドンサはキホーテによってドルシネアになる(そこにはキホーテの「気高き心」に起因する不幸があったことは忘れてはならない)。そしてキホーテのたたかいの意味も、ドルシネアによってはじめて意味づけられる。


 敵を見つけ、それをつぶす。そうしたためにたたかうのではない。思い起こせ。キホーテは打ち棄てた敵にも手当をしてやろうとしたではないか。敵を見出すことにキホーテは執心したのか。それ以上に、ドルシネアの姿を追い求めることにこそ、彼の狂気は向けられたのではないか。キホーテの「あるべき姿」とは、まずもって敵を打ち滅ぼすようなことではなく、自らに意味をもたらす思い姫に出会うことではなかったか。


 しかし、なんど観ても砂をかむような思いになるのは、前述したように、アルドンサを見舞う不幸が、他ならぬキホーテの言動によって引き起こされること。この不幸を、フィナーレによって埋め合わせることは出来ないし、してはならないだろう。キホーテの狂気は少なくとも自分自身を救い得たろうし、最後の最後にはアルドンサをドルシネアとして救ったようにも見える。けれど、後者についてはそう言いきれる自信はない。


 こんな程度の「誤読」では、あの男の下らぬ「誤読」には打ち勝てぬかもしれない。しかし、僕は悔しくてならない。我慢がならないのだ。奴に大事なものを奪われてしまった気がしてならない。


 何としても取り返す。「物語」を、取り返してやる。

 
 その方法は……、ハックルベリ・フィンに教えてもらうことにしよう。
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by todoroki-tetsu | 2012-08-07 23:28 | 批評系 | Comments(0)

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