「かつて、ぶどう園で起きたこと」再読その七

 4:「作品分析――副詞『あらかじめ』の恐怖」の締めくくりが、『悪人』を「資本論」に模しつつ、しかしその先を切り拓いていく批評となっているのは実に示唆に富む。作品と批評の幸福な出会いが、ここにはあるだろう。


 単行本とはいえ2頁少々である。ひとつを引こうとすると、結局全部引かざるを得ないようになってくる。それでもここでは「嘘」の一点に神経を張り巡らせることにしよう。


……地方の経験浅い保険外交員「佳乃」が、流行り化粧のような「嘘」をつくことは、当然の行為――ありふれた風景である。その景色が、偶然をねじ伏せるような必然の力に貫かれているように見えるところが、怖い。


 
 これ以上何を付け加えることもないだろう。これは僕のことであり、あなたのことだ。ありふれた風景とは、すなわちわたしたちの日々の暮らしや労働や、真面目さや笑いや、涙のことだ。時には欺き、時には欺かれ、時には叩き、時には叩かれ……それらは偶然のように思えるけれど、必然に貫かれていること。


 いや、そう決めつけるのはやめておこう。「偶然をねじ伏せるような必然の力に貫かれているように見える」と、浅尾さんの言葉を忠実に理解するよう、努める。


 このようにしてニッポンの青年たちは、まさに見えない敵によって追い詰められている。確かなことは、資本は「嘘」にまみれており、その是正に振り回される私たちもまた「嘘」をつく人間・被造物であるということだ。

 

 どっちもどっち、なのではない。圧倒的な力の差がある。かといって、「アメリカに比べ、ソ連の核実験の灰は……」式の倒錯した評価とも無縁だ。ここはあくまでただ単に、事実を淡々と述べているに過ぎない。ほんとうに「確かなこと」しか述べていない。


 この重みを、しっかりと受け止めること。この二つの引用のあいだに、次のような一文が挿入されていることを忘れない。


 私には、主人公たちを「もっとがんばれ」「愚鈍だ」などと言って叱ったり、笑ったりはできない。



 この一文がなくても、文意はかなりの程度通じよう。それではダメだったのだ。「密かに傷つき、悲しみに暮れて、ひとり声を殺して泣いている」彼らに、どこまでも寄り添おうとする作家には、どうしてもこの一文が費用だったのだ。読み手がどうして見過ごすことが出来よう。


 さて、これで「スピード」と「嘘」という、この批評のカギとなる言葉について追ってみた。そこであえて除外したのは、「あらかじめ」ということであった。


 副詞「あらかじめ」とは、唯物論者の浅尾さんが「神の問題」を、そうとは呼ばずに考えを前進させるために用いた言葉であり、「資本」と同じくらい重要な位置を占めている言葉である。そこを飛ばしたのは、極めて個人的な理由による。

 
 この「あらかじめ」という言葉を、僕は職場で実に多用している。「あらかじめ需要を予測せよ」「あらかじめ準備せよ」「あらかじめ発注せよ」……僕の業務文書の中でもっとも多い副詞だろう。それは明らかに、この評論を読んでからのことである。つまり、この、「ロスジェネ文学」を真正面から論じた評論、資本の暴力にさらされながら生きるわたしたちにとっての文学とは何か、を論じた評論を、ものの見事に換骨奪胎し、「資本」のスピード遂行に役立てているというわけなのだ。


 しかし、同時に、「あらかじめ」と自分に言い聞かせ、またスタッフにも叱咤するそのとき、何とかして主体的であろうとする自分、を想定しているのも事実である。そんなものは所詮「ブタ箱の中の自由」(岡林信康)なのかもしれない。嘆いていてもはじまらない。されど、悟りきるにはまだ早い。

 
 そんなわけで、「あらかじめ」という言葉については今少し括弧をつけさせてもらいたいと考える次第であった。



 
[PR]

by todoroki-tetsu | 2012-08-01 23:09 | Comments(0)

<< 「かつて、ぶどう園で起きたこと... 「かつて、ぶどう園で起きたこと... >>