「かつて、ぶどう園で起きたこと」再読その五

 4:「作品分析――副詞『あらかじめ』の恐怖」の冒頭では、「生産」の暴力が、今までとは違った表現で語られる。


 かつて生産現場における勇猛かつ無政府主義的なファンタジーを牽引した「希望」は、支配―被支配という等価交換のなかに潜む剰余価値G’の「山分け」、すなわち平等な分配があり得るというものだった。


  
 これをふまえると、「やられたらやりかえせ」という言葉はまた違った印象を持って迫ってくる。あるいは、吉本さんの「ちいさな群への挨拶」を連想するのは、読者の勝手に過ぎようか。

 ぼくはでてゆく
 すべての時刻がむこうがわに
 ぼくたちがしはらったものを
 ずっと以前のぶんまでとりかえすために



 浅尾さんの言葉はさらに先に進む。

 
 私がこのような「希望」の型を「資本論幻想」と呼ぶのは、人間という変数の閾値が少しも勘定に入っていないからである。ひるがえって現代ニッポンの「ロスジェネ文学」は――『資本論』に忠実ではあるが、主人公たちが人間の連帯を安易に信じていないという点で、かなり深いリアリズムを獲得している。



 「平等な分配」にむけて、人間どうしが連帯することの困難。本来連帯すべき人間どうしが、何かによって分断されているという認識ではおそらくない。もともと連帯なんて出来ないし、しないじゃないか。前提が逆転する。そう、「黄金律は、天地開びゃくの第一日目から存在しており、私たち人間の目に見えなかっただけである」。


 彼らは、流通過程でふたたび過酷な労働と暴力に出会う。彼らは、それを逆らえない必然として一身に引き受けている。そうして密かに傷つき、悲しみに暮れて、ひとり声を殺して泣いているのだ。



 エドワード・ホッパーの作品から感じ取ることの出来る寂しさをも思わせる。僕はこうした言葉を記す人を、心の底から信頼する。一言一句を盲目的に信頼する、という意味では決してない。書き手と商売人である書店員という関係上、そこにはどうしても「仕事」「カネ」の関係が介在する。あらゆる緊張関係が発生しうる。しかし、それでもなお、この一文を記しうる書き手を、信頼しない理由は何一つありはしない、そう言い切る。こうした文学者と同時代を生きることの幸福が、ここにはある。

 
 とはいえ、この幸福は絶望の中のそれである。

 
 彼/彼女の後ろ姿から伸びているのは、死の影と副詞「あらかじめ」の恐怖である。


 
 この正体を突き止めるには、ヴェイユ―吉本隆明から、書き手と読者がともに学びとることの出来る以下のような着想が必要である。


 ……「ロスジェネ文学」を論じるにあたっては、物語から絶望が引き出され、「神の問題」に直面するはずである。

 しかし唯物論者の私は、いまここでは「神の問題」とは呼ばない。「資本」、あるいは副詞「あらかじめ」という表現に言い改めながら、「溜めのない世代」が抱える苦しみと悲しみを、この身に引き寄せてみたい。

 
 
 唯物論者、という言葉にひっかかる必要はないだろう。「神の問題」すなわち「信仰」にかかわるもんだいを、そうではないアプローチで考えていこうという、それだけのことだ。そのそれだけのこと、が大事なのだが。
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by todoroki-tetsu | 2012-07-30 14:24 | Comments(0)

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