「かつて、ぶどう園で起きたこと」再読その三

 2:「その運命は、『地獄行き』」には、先に引いたテーゼ的な一文がある。が、順を追ってみていこう。


 「ロスジェネ文学」は、モノづくりが出来なくなった国の物語である。難しく言えば、資本の流通過程で働く若者たちのナイーブなファンタジーが恐慌的に崩壊していく物語である。



 この記述は、具体的に挙げられる「ロスジェネ文学」を読んだ上でならば、「ああ、そうか」とまでは思わずとも、「そう言えるかもしれない」とは感じることが出来るだろう。資本の流通過程で働く、という言葉の意味が今一つ判らなくてもいい。かつての工場労働のようなイメージではなさそうだ、ということだけを感じ取ることが出来ればひとまずはよかろう。


 この二頁足らずの中に、カネと暴力という言葉がいくつか出てくる。暴力もさることながら、ここではカネに注意しておきたい。


 しかし思うに、ニッポンの「ロスジェネ文学」の主人公には――否、書き手にすら、共有すべき一人の恩師もいなければ伴侶もいない。

 もはや私たちの文学の「親」は資本――カネと暴力である。



 前半の一文には注釈が添えられている。新人賞という「ふるい」にかけられ、文芸誌という闘牛場で闘う者としての「書き手」。当たり前のことかもしれないが、浅尾さんはカネと暴力の世界を、文学の世界に限定しているのではない。うまく言えないが、書き手である自分自身もそのるつぼの中にあり、カネと暴力とは無縁ではないのだ、そう意図してかせずか、とにかくそう言っている。いや、この時、自分を書き手とすら考えていないかもしれない。そう思って先にも引いた一文を読み返す。下線は等々力による。


 資本の総過程が恐慌を準備するなら、私たちの作家は、労働者の心が壊れていくさま――たとえば狂気、殺人と自殺の物語をますます描くことになるだろう。


 「私たちの作家」! ここには書き手である自分自身が勘定にはいっていない。違う。誰が書き手で誰が読み手で……そんな次元の話じゃあない。「私たちの文学」だけなら、書き手である自分自身も勘定に入ろうが、「私たちの作家」という表現には、そうした垣根など存在しない。

 
 「神」という言葉を口にした意味が、ひょっとすると……。待て。耐えよう。再び空白を、空白のままで維持したまま、次の一文に進む。


 とどのつまり、私たちの文学の運命は、資本――カネと暴力に破れていく人間の終わりを描くのか、それとも、資本に反逆し、「嘘」をつき返し、唾を吐くような人間たちの物語をいかに再構築するのかという、もはやそのどちらかの選択しかない。



 この二者択一は、ある論法を知る者には、極めてありふれたものであるだろう。すなわち、「進歩か、反動か」。世のなかそんな風に割り切れるもんかね、と思えるのは今になってからのこと、20歳そこそこの人間が真剣に世界観を考えた時に出会ったならば、それはじつにおおきなことだ。いや、40手前の自分がさも世間を知ったようになっているに言っちまうのもおかしな話だ、これから先に何がどうなるかわかりゃしないのだから。


 しかし、とにもかくにも、これがある種の決断を迫る物言いであることに異論はあるまい。もんだいは、誰が、誰に対して、迫っているのかである。主語はあくまで「私たちの文学」にある。そして、この主語は「私たちの作家」と置き換え得るような用法を含んだものであることに注意しよう。客観的条件? それは形を変えた「神」であろうか。そんな置き換えについて考えを巡らすのはあまり生産的だとは思えない。


 試みに、「文学」という単語を取っ払ってみようではないか。そして、少しばかり文章を整えてみよう。作家に対して失礼であることは重々承知している。申し訳ないが許してほしい。この作業を経ると、例えばこの一文は下記のようになるだろう。


 とどのつまり、私たちの運命は、資本――カネと暴力に破れていくのか、それとも、資本に反逆し、「嘘」をつき返し、唾を吐くような私たちをいかに再構築するのかという、もはやそのどちらかの選択しかない。



 浅尾さんが「文学」という時、そこに何を込めているのか、僕にははかり知ることが出来ない。しかし、言えるのは、「文学」という言葉を目にした読者は、「これはつくりものの世界の話だ」と、括弧で括って何かを判った気になってはいけない、ということなのだ。それは他ならぬ、僕自身への警告である。


 そうした読み方では、たどり着けない地平がある。いや、文学とはもともと、そんな風に消費しうるようなものであったのか。書き手浅尾大輔は既に、自らを書き手として狭く自己の周りに壁をつくるような、チンケな真似をしていない。浅尾さんがそうした構えでいる以上、それを読む私たちもまた、垣根を取っ払おう。これは誰かの書いた何ものかで、それを自分の都合のよいように消費することが出来ると思うことを、やめよう。いや、たとえやめることが出来なくても、せめてその時自分が何をやっているのか、そのことだけは自覚するようにしよう。

 
 文学という言葉が、ほんとうに真剣に用いられているのだということ。そのことをまずは感じよう。この言葉には、書き手も読み手も、一切合財すべてがひっくるめられている。
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by todoroki-tetsu | 2012-07-27 23:08 | 批評系 | Comments(0)

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