「かつて、ぶどう園で起きたこと」再読その一

 「何度読んでもわからないものはわからない。わからなくてもいい。何か感じるものがあればそれでいい」……批評家・若松英輔さんはそんなようなことを幾度となく講演の中で述べる(こうして字面だけ再現しようとすると何とも気の抜けたようなものに感じられてしまうのはあくまで僕の筆力のなさによる。若松さんの責任ではない)。

 
 何度読んでも判らない作品というのは確かにある。繰り返し読んでみて気づくことがある、そういう作品もある。判らないけれども、何かある、そう思って読み返すが、やはり判らない。そういう作品も、確かにある。ハナから判らないだけでなく、何も感じないのであればまだあきらめがつく。何かがありそうだという感覚だけは感じ取ることが出来る作品というのは、ずいぶんと始末に悪い。言っちゃあ悪いが、腐れ縁のようなものだ。


 僕にとって、そうした書き手、作品というのはいくつかあるのだが、同時代の作品では間違いなく浅尾大輔さんの書く作品のいくつかは、そうしたものだ。判らない。だが、何かありそうだと感じる。けれど、それはいったい何であるのか。読む度に「謎」は深まる。


 そうした作品の典型としての評論、「かつて、ぶどう園で起きたこと」(「モンキービジネス VOL.10」、2010)について、何日間かかけて考えてみたいと思う。


 この評論については、発表されたちょうど2年前に、ほんの少しだけコメントを記しておいた。この評論のキモが、この時に引いたこの個所であることは間違いないだろう。

 
 資本の総過程が恐慌を準備するなら、私たちの作家は、労働者の心が壊れていくさま――たとえば狂気、殺人と自殺の物語をますます描くことになるだろう。あるいは労働力の再生産過程――職場・学校、家族から排除された「フリーター」「ひきこもり」「障がい者」、もしかしたら「自分はブスだから生きる価値なんてない」と思い悩む小学生を主人公にすえた物語と向き合っていくかもしれない。

 とどのつまり、私たちの文学の運命は、資本――カネと暴力に破れていく人間の終わりを描くのか、それとも、資本に反逆し、「嘘」をつき返し、唾を吐くような人間たちの物語をいかに再構築するのかという、もはやそのどちらかの選択しかない。


 
 しかし、この言葉の意味はなんだろう。ここで書かれている言葉の意味をほんとうに「判った」といえるのは、はたしてどういうことだろうか。そう考える時、僕は愕然とするほかはない。あちこちにちりばめられた「神」「資本」「カネ」「あらかじめ」「嘘」「スピード」……様々な言葉は大いに手がかりになりそうで、実はそのキーワードこそがつまずきの石ではないのか。


 そう、これは評論の形を借りた「詩」なのだ。浅尾さん自身がいみじくも記す「心象のスケッチ」(1.「ロスジェネ文学」)という表現。そこに手がかりは既にあったのだ。理路整然と丹念に論旨を追っていく、そうした読み方(だけ)では、おそらく感じ取る「何か」にたどり着くことは出来ない。


 「心象」に、迫らなければならない。
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by todoroki-tetsu | 2012-07-25 22:08 | 批評系 | Comments(0)

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