誰をも貫く「言葉」のありようについてのイメージ

 先週22日(金)の官邸前以来、やや強く考えていることのひとつに、誰をも貫く言葉、敵も味方も他者も自分を、全てを貫くような、そうした言葉のことがある。例えば、先週のエントリでこう記したようなもの。


 賛成か反対か、という次元を超えて、どういう気持ちか判らないけれどもおそらくは真面目な気もちでわざわざ「再稼働賛成」を言いに来た人たちも、「反対」の気持ちで集まった人たちをも、そしてもちろん自分も含めて、みんなに等しくいきわたる「言葉」



 そうした言葉が上から降り注ぐのか(垂直)、それとも同じ地平にいる者どうしの中から紡ぎだされるのか(水平)は判らない。かつて「相対的な存在が持ちうる絶対性」について考えたこともある。結論など容易に出やしないんだが、どうにもここいらあたりには僕なりに感ずるものがあるようだ。
 

 さて、そんなことと若松英輔さんのこととがあいまって、『ロスジェネ 第4号』を、ひさびさにちゃんと引っ張り出してきたりしていた。

 
 杉田俊介さんと対談している中で、ここでもやはり大澤さんの言葉を参照項として引いてみる(P.187)。


 それはまさにこの瞬間に互いが他者に成り得るかという話でもある。僕は一緒にやっていくというのは、友が敵であることを肯定できることだと思うんだよね。敵をどう友に変えるかだけではなく、自分が本当に親しいと思っていた存在が異物と化していったとしても、その光景自体を肯定し、共有できる関係があるはずです。もしかしたらそれは個人の意志の強さではなく、それを可能にさせる社会的な流通、生産、消費、そこから生じる新しい信頼なのか信仰なのか、そういうものによって可能になるのかもしれない。

 市場システムの強いところは敵を味方にするところですね。心理的に、生理的に考えたら、あるいは社会的なアングルから見たら一見敵であるはずなのに、それがいないと自分が生きていけないという意味での味方。たとえば僕にとって、文章を書くことで生きると覚悟した人は、たとえ主義主張が敵対していても、その人がいなければ空間が成立しないという意味では否応なく味方でもあるわけです。そのように敵対性を回転させるものが資本のなかにある。その強さを見ないところでオルタナティブな空間や市場を作ろうとすると、結局は、仲間内で組み合ったり、敵を排除するという発想になる。だから、この資本性の厄介さに根差したところで、その先を開くことが大事だと思うんです。それ自体もまた資本制とはべつの信仰や宗教なんだろうか。



 これに対し杉田さんは、「ああ、そうか。うん。友と出会う条件はそのまま敵と出会う条件であるのかもしれない」と応じておられる。詳しくは『ロスジェネ』そのものに譲ろう。ここにはたいせつな何かがある。

 
 賛成や反対は切実だ。でも、割り切れないもの様々にある。無限のグラデーション。そのグラデーションはそのままに、なにかこう、「みんな幸福」(ベルク店長井野さんの言葉)になることは出来ないものだろうか。そう思っている。


 ……どうも僕は「三人の世界」(前回エントリ参照)にすぐ引き寄せられるようだ。決して悪いとは思わないが、それが「一人の世界」や「二人の世界」の固有性を塗りつぶしたり無視したりしていないか、自己点検が必要だ。
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by todoroki-tetsu | 2012-06-28 07:20 | Comments(0)

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