「読み方」の問題――若松英輔・大澤信亮の言葉から考える

 若松英輔さんが、先日の講演の中で、小林秀雄や井筒俊彦の様々な文章を紹介しながらおっしゃっていたことの意味を考えている。


 それは、「小林や井筒の言葉を比喩として読んではならない。その通りに読めばよい」ということだ。「まず感じ取ること。文学や宗教はその後にある」とも言われていたように思う。多少表現を変えながらも、繰り返し繰り返し言われたことであった。

 
 言葉を正確には再現できていないかもしれない。自分のとっていたメモは走り書きに過ぎて自分でもよく判読できない。ゆくゆくは書籍になるそうだから、正確さはその時にゆだねよう。生身で同じ場所にいながら、そうしたことがどうにも僕自身に引っかかった、その確かさだけがさしあたっては重要だ。


 思いつくままに、参照項をあげていってみる。結論など早々出せるもんかと開き直る。ただ、考えていくうちに思い当たる言葉をひっぱりだし、そしてまた考える。その繰り返しだ。


 中島岳志さんとの対談の中で、大澤信亮さんが述べた言葉(『世界が決壊するまえに言葉を紡ぐ』、P.126-7)。

 たとえば、目の前の現実をじっと見つめる時、ここにあるもの(コーヒーカップを指して)が言葉なのか、物質なのか僕にはわからないんです。
 
 単純にカップという物質がぽつんとあるわけではなくて、言葉を使ったさまざまな交渉の果てにカップが今ここにあるわけじゃないですか。

 さまざまな言語的関係が練り上げられていく中で、ここにある現実ができあがっているとしたら、この目の前の現実も簡単に物質とは言えない。


 「言葉の二重構造」と名付けられたセクションにおいて、小林秀雄の「感想」の話題を中島さんがふったのに対し、「言葉と実践を分けないで生きた人間」としてのキリストを提示し、応答するところの言葉。このある種の踏み越え加減がスリリングで印象深い。たいせつなことが言われているという気はする。しかし、理解は出来ていない。そりゃあれこれ何かを引っ張り出して言葉をつぎはぎすることくらいなら出来る。けれど、それをしたところで何の意味があろう。

 
 そうなると、やはりここは言葉どおりに読むしかない。繰り返し読むしかない。言葉にふれる時に、確かにこういうことは、ある。


 ちなみに、この対談は、大澤さんが「月の爆撃機」(ザ・ブルーハーツ)にふれて締めくくられる(P.144)。

 で、月明かりは何だろうと思った時に、僕は言葉だと思うんです。友だちも、恋人も、誰の声も入れない自分のなかにも、つねにすでに、言葉という他者だけは入っている。

 この他者を通していかに自己を開けるか。ここに自由や平等を考える鍵があると思います。




 言葉と実践(あるいは現実)、自己と他者と言葉との関係。

 
 ここでいう「他者」は何なのか。一対一で対峙する他者、吉本さん流に言えば「個体と他の個体との関係する世界」=「二人の世界というモデル」(講演「宗教と自立」)の話なのか、それとも「集団性のなかにおける個体の世界」=「三人の世界」(同)の話なのかは判らない。いや、ひょっとすると「個体としての個体の世界」=「ひとりの世界というモデル」(同)なのかもしれない。けれど、閉じられた中での話でないことだけは言えると思う。これらみっつの世界を貫く、あるいは横断する、そんなイメージは得ることが出来る。さらに言えば、やや「三人の世界」に近いように思える。

 
 お前がそう思うからそうなんだろう、と言われればそれまでだ。「自由」「平等」といった社会的な文脈で使われる述語に引っ張られているだけではないのか、と言われればそれまでだ。しかし、「ひとりの世界」でも「ふたりの世界」でもいいし、それらを往復してもいいのだけれども、とにもかくにも突き詰めて突き詰めていった末に差しこんでくる月明かりがあるとして。その月明かりに照らされた自分はどこへ行こうというのか。誰に対して何を為そうというのか。自己を開くとは、再び他者との関係性を結び直すことに他ならないのではないか。だとしたら、個別具体的な「二人の世界」で自己を開いたとしても、それはもはや「二人の世界」だけの話ではありえず、「三人の世界」へも波及していくものではないのか。


 言葉に出会うことと、出会ってからのこと。確かにこの二つは異なる次元にあるのかもしれない。しかし、そうした「時系列」だけの問題だろうか。


 ついこの間、上原專祿の『死者・正者』の山場のひとつ、「誓願論」をTWITTERで読み直していたのだが、その際僕はこんなことをメモしている。


 しかし、「目の前にいる他者」が歴史上の人物であれ現世の者であれ彼岸の者であれ、そうした存在と自分自身との関係はどうだろう。そこには何か共通して目指すべきものや、両者をとりまくものがありはしないか。二人の閉じられた関係ではなく、三者の開かれた関係。 #shisha_seija



 上原と妻はおそらく釈尊―日蓮を媒介とし、その関係は「共闘」である。ともに第三者に向けて対峙する。「死者と生きるとは、死者の思い出に閉じこもることではない。今を、生きることだ。今を生き抜いて、新しい歴史を刻むことだ」(若松英輔『魂にふれる』P.20)。 #shisha_seija


 
 まだまだ考えなければならない。
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by todoroki-tetsu | 2012-06-26 00:52 | Comments(0)

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