資格と言葉――官邸前から帰ってきて

 18:00前には議事堂前の駅についた。

 
 官邸前の交差点では、僕のたどり着く少し前にひと悶着かふた悶着くらいあった様子だ。「笑点」の音楽がちらと聞こえていた。

 
 途切れず人がやってくる。18:00の段階でもう随分と列が伸びていて、下手すると一周するんじゃないかと思った。途中で車道二本分が解放されたが、それでなければおそらくあの記者会館などがある区画全体を回り回って官邸前までずらっと続いただろう。後ろの方にいけばいくほど、何となく和やかで、でも真剣な、ああ、こういうことなんだよなあ、と思ったのだった。


 覚えず涙ぐみそうになったのは事実。しかし、すぐさまそんな資格はないとこらえた。たった二人で官邸前にたたずんでいる方に、声をかけることもなく、一緒に立つことも出来なかった自分に、涙ぐむ資格などありはしないのだ。


 文字通りの官邸前では「再稼働賛成」とか「左翼出てけ」といったコールが響く。人数は多いとはいえない。なんとなくダラけた感じのする人もいる。が、それはべつだん主義主張とは関係がない。ただ、「笑点」の音楽がかかっていたことをもって「不真面目だ」とする主張にはいささか首をかしげざるを得なかった。極私的にすぎる感想だろうか。


 こうした前方での緊張関係を反映してか、「再稼働反対」のほぼ一本やりのコールが続く。「命を守ろう(守れ)」「子どもを守ろう(守れ)」のコールが、あまり聞かれなかった。なら自分でコールすりゃよさそうなもんだけれども、場所とタイミングを探してうろうろしているうちにみるみる人数が膨れ上がり、カオス状態になっていった。

 
 官邸前もいくつかのデモも何度か参加させてもらっているが、今日ほど「命を守ろう」「子どもを守ろう」という呼びかけが大切だと思ったことはない。それは、賛成か反対か、という次元を超えて、どういう気持ちか判らないけれどもおそらくは真面目な気もちでわざわざ「再稼働賛成」を言いに来た人たちも、「反対」の気持ちで集まった人たちをも、そしてもちろん自分も含めて、みんなに等しくいきわたる「言葉」のように思えたからだった。

 
 それに対し、「再稼働反対」一本やりのコールは、何かこう、一点突破というか、十っぱひとからげというか、そんなことになりはしないか、と勝手に一人懸念していたのである。確かに、コールのリズムとしては語呂もよく、一点突破でノリを結集させることは悪いことではないと思っている。しかし、シンプルな言葉、特に「反対」というアンチのニュアンスがモロに含まれている言葉はよくも悪くも情感をエスカレートさせる。ある種の思考停止状態をもたらす可能性もあるだろう。その思いは、基本的にはこれを記している今も変わりはない。

 
 けれど、次第に、「再稼働反対」という、これはこれで非常にシンプルな言葉に、4万人強の、それぞれひとつひとつの思いが仮託されている。そう思えてきた。ノリで言っている人もいるかもしれないし、切実に叫んでいる人もいる。だまっている人もいれば鳴りものと一緒に身体を動かしている人もいる。そうだ。「動員」ではないのだよな(動員が悪いとは思っていない。念のため)。笑っていたり深刻だったり色々とするのだけれど、ひとりひとりの表情が活きている。


 言葉の問題は大切だ。その意味で、僕はやはり「命を守ろう」「子どもを守ろう」というコールが、もっとあったほうがよかったと思う。それは誰かに対しての主張というよりも、参加させてもらった一員としての自覚的反省としてある。けれど、それ以上に、言葉が生まれる現場に居合わせることが出来たという感覚が強い。主催・運営側の皆さんに心から感謝したい。


 言葉を受け取ることの難しさ。読むこと、読者であることの困難。そういったものを、重ねあわせている。いずれも自らの内部に折り返していく問いとして。


 
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by todoroki-tetsu | 2012-06-22 22:33 | Comments(0)

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