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3・11に向けて、あるいは子どものメッセージの商品化について

 案の定、というと言葉が悪すぎるだろうか。数ヵ月後に迫る3・11に向けての新刊のご案内を目にすることが増えた。


 今年に入ってから目にするものは、これまでに出された広義の震災・原発本とはどことなく違っているように思える。「起きてしまったこと」「今起きていること」を――後追いでもさかのぼるでも同時進行でもかまわない――対象に据えてきたのが今までの流れだったとすれば、これから出されるものは「来る3・11とその先に向けて」というものにより重点が置かれているように思われる。


 もちろん、これは厳密に言えば不正確であって、今までもこれからも、過去を振り返ること、今を見据えること、これからを展望することのみっつは常にあり続ける。「過去、現在、未来――/この言葉はおもしろい/どのように並べかえても/その意味合いは/少しもかわることがないのだ」(山上たつひこ、『光る風』の冒頭)。


 具体例は逐一あげないが、被災地の子どもからのメッセージを集めた、といった企画の本が目立つ。既に数種類チラシを見ている。たぶん、もう少し増えるだろう。これは『宮城県気仙沼発!ファイト新聞』の流れをくむもの、と書店員としての僕は考える。つまり過去の類書は何で、元棚に落とし込む時には何の隣に差せばよいのか、という発想。


 嘘か本当か知らないが、ネタに困ったら子どもかペットみたいな言葉がどこかの業界であるらしい。そういう目で見てはいけないのだろう。特にこれから先へと連なる子どもの問題というのは如何なる意味でも重要だ。けれど、そうした本に注文部数を入れている自分を俯瞰してみている自分は自分にこう突っ込む……「お前、子どもを食い物にしちゃあいねぇか?」。


 このような発想は大変に礼を失している。被災地、といってもひとくくりにはできないはずだがそこはさておき、大変な目にあってきたし今もまた大変な思いをしながら、生き抜いている子どもたちの発する言葉・メッセージは切実で、大事なものであるだろう。それを本にすることにはおそらくぐうの音も出ないくらいの正当な「社会的意義」が、ある。けれど、いや、だからこそなのか、それを「売れる/売れない」で判断する際に、ほんの少し、躊躇はある。


 しかし、そんなことは子どもに関する本に限ったことではないのだ。多分別にちゃんと記さなければならないが、どんな人の言葉であれ、それがパッケージ化されて本という商品になるや否や、売れるか売れないかだけが重要になる。もちろん、本によってその売れる/売れないの基準は変動するが、しかし、どんなに「いい本」であれ、一冊も売れなければ商品としても社会的意義としても意味はない。さらにいえば、僕は書店員として働いてメシを食っているが、そのメシの元をたどれば、例えば団体のまとめ買いによる売上であったり、一過性のタレント写真集であったり、ダイエット本だったりもするわけである。お客さんの買ってくれそうなものを用意するのが書店員の仕事であって、個人の思想信条なんて関係ない。それは当り前のこと。ここが同じ「出版業界」であっても出版社――特に所謂「社会・人文系」のそれ――とは大いにイデオロギー形成過程が異なるところであるだろう。

 
 こんなことを言ってしまうと身もフタもないのかもしれない。が、同時に言葉が商品であるということの可能性もあると思っているのであって、「売れない」ものをいかに売れるようにするかが仕事であると思ってもいる。成功したためしはほとんどないのだが……(しかし多分そう思わないとやっていられないのだろう。その点は書店員イデオロギー論として考えていく)。

 
 話を戻そう。子どもの発するメッセージを何らかの形でまとめて本にするのは意義があるし、露悪的に言えば商品価値がある。しかし、あまりに似たような企画が重なると、お互いにお互いを食いあって商品寿命を縮めてしまう。書店の棚は有限なのだ。特定のコーナーを拡げようにも限度がある。棚から溢れてしまえば返品するしかない。この間の原発本でいやというほど見てきた光景が、また繰り返されるような気がして暗澹たる気持ちになっている。


 原発本の洪水は、それはそれである種の社会的関心のあらわれであるから全否定するつもりは毛頭ない。今後に残っていくだろう本もあるだろうし、一過性で終わるかもしれないけれどもその時期には一定の役割を持った、そんな本もあるだろう。「社会的意義」を強調されることの違和感などは以前のエントリで記しておいた。


 今考えているのは、確かに商品として売り買いされるけれども、触れた者の心に沈潜し、やがては喰い破るような、言葉。この言葉を発する者は何者か、その言葉をその者に言わしめる力は何なのか、そしてその言葉に触れたお前はどうするのか、と突き付けるような、言葉。読む者に単なる「反省」や「感動」を引き起こして感情を消費させるようなものではない、言葉。そうした可能性はあり得るのではないか、と武藤類子さんの『福島からあなたへ』を読みながら考えている。


 それは「これを言いたい」「これを伝えたい」という思いだけでは、成り立たない。そういう思いはもちろんすべての出発点であって、大切にしなければならないものだ。けれど、そういう思いが、いかに他者に伝えるかを考慮された上で発せられた言葉になり得るかどうかはまた別の話である。


 そんな可能性が見出せるような商品に、僕は力を注いでみたいと思う。それがささやかな自己満足、ある種のつぐないのような感覚であったとしても。それで何かをやった気にならないように自戒しながら。

 
 蛇足をひとつだけ。もちろん、子どものメッセージをまとめていく本の場合、子どもの言葉や絵を改変することは難しいだろうし、すべきではない。けれど、それらを活かして作りこんでいくことは出来る筈だ。『「僕のお父さんは東電の社員です」』はその好例といってよい。

by todoroki-tetsu | 2012-01-25 21:13

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