書店員イデオロギー論(6)「内容」か「背」か

 「著者という他者の言葉を、顧客という他者に売る、それが書店員の仕事である」と以前のエントリで記したけれども、書店員が扱うのは言葉であってなおかつ、商品でもあるものだ。

 
 前回『言語にとって美とはなにか』を引いた。今回は別のところを前置きとして参照しておきたい。概念図も掲出されているが、ここでは本文のみを引く。


 ……言語表現を『経哲手稿』のマルクスのように「人間の本質力の対象化された富」といってみれば、この対象化された表現をbの経路(等々力注:自己表出から指示表出へ)でかんがえるとき言語表現の価値を問うているのであり、aの経路(同注:指示表出から自己表出へ)でかんがえるときその意味を問うているのだ。そして、そのうえでさまざまの効果のさくそうした状態を具体的にもんだいにすべきだということになる。

                           『言語にとって美とはなにか Ⅰ』、P.103



1.書店員の二つのタイプ

 極論する。書店員には二つのタイプがある、と言ってしまおう。内容派と背派と仮にここでは名付けておく。なお、背派という言葉は小倉金榮堂のご主人、柴田良平さんの言葉による。興味ある方は、『吉本隆明 五十度の講演』の「【11】〈アジア的〉ということ」の冒頭をお聞き頂きたい。些か高くつくけれども、損はない買い物である。
 

 さて、内容派は、自分で読んでみてよいと思ったものを力を入れて売っていきたい、と考えるタイプ。背派は、自分では本を読まないが、今何が売れているかをベースに、装丁の雰囲気やタイトル、書評などから売れそうなものを売っていく、というタイプ。そのように分けて考える。


 実際に書店員がやっているのはこのタイプを適度に混合したものである。内容派といっても全てが全てゲラなり自分で購入したりした本を読んでからでないと売れないわけではないし、背派といっても目次などからおおよそ何が書かれているかというのはチェックするものである。考察においてはある種極端なタイプを想定してからはじめたほうが都合がよいのでそうしておく。


 タイプという用語を用いたが、これは実はその書店員がどういう世界観を持っているかという問題である、と大げさに言おうと思えば言える。書店員は内容を知った上で売るべきだと考えているか。それとも、この本はどんな顧客に向けたら売れるだろうとさえ考えればよいと思うか。

 
 繰り返すが、この両者は実際には複合する。どちらか一方だけ、というのは考えにくい。しかし、その書店員がこのいずれを理想と考えているか、突き詰めて考えていくとこのどちらかの問題になる。内容=「意味」か、背=「価値」か。言葉に寄り添うか、商品として突き放すか。良し悪しの問題ではこれはない。どちらが正しいということではない。



2.内容派と背派の実際――個人的経験から

 僕自身はどちらかというと内容派である。いや、あった、という方が近いかもしれない。具体的に記そう。


 例えば家電では、新しい機種について、そのメリットやメーカーごとの違いなどを説明してくれる店員さんがいるだろう。それと同じように本来は書店員も、扱っている本についてちゃんと知っているべきだ。しかし、高度の専門書(例:医学書)については難しいだろうし、担当する分野が広いと全てが全て読むというわけにはいかない。だから、全部読むというのは到底無理だが、少しでも読んでおくのが書店員としての理想である。なかなか難しいかもしれないが、努力しよう――いつ頃からは覚えていないが、だいたい、書店員として勤め始めて1~2年程度の段階(約10年前)ではこうした考え方をしていたように思う。


 この考え方は今でも否定すべきものだとは思っていない。が、突き詰めて考えるとあくまで努力目標にとどまるものでしかない。それはそれで大事なことだけれど。

 
 最初にこうした内容派的な考え方をするようになったのは、個人的な性向にもよるだろうが、振り返ってみると地方店にいたことが大きかったのかもしれない、と思う。地方店には地方店なりの忙しさがあるが、例えて言えば、全国紙の書評が出たからといってその日曜や月曜のうちに何十冊も売れるような、そういうような反応はなかった。その意味では相対的に内容について考える余裕があったし、また焦りもあったのかもしれないと思う。


 その後いくつかの場所を経たが、現在勤務しているのは比較的顧客の反応の早いところである。新刊の物量も多いし、版元営業さんもよくお見えになる。情報量は格段に多い。落ち着く時間がなくなっていく。それでも新刊は入ってくる。粘るものと見切りをつけるものを見分けよ。判断のスピードを上げよ。読んでいる暇はない。タイトルと著者でだいたいの見当をつける。困ったら目次だけざっと眺め、置くべき場所を決め、部数の過不足を予測する。装丁から受ける印象で、これはいけそうだ、と思うこともある。そこそこに当てた勘もある。外した勘は無数にある。
 
 
 かくして、内容派はいつの間にか背派にシフトする。大量の本を触ることで、あるいは顧客動向をよく観察したり、新聞やテレビをよく読んだり見たりすることで「この本はここに置いた方が売れそうだ」「こういう本が出ると売れるのではないか」という感覚を磨いていく。そうなると、本を読むのはあまり重要ではなくなってくる。顧客の関心がどこにあるのか、その関心にマッチングさせるためにはこの本をどこに置けばよいのか、徹底的に考えていく。誤解を恐れず言えば、本を読んでいる暇などなくなってくるのだ。


 しかし。顧客は確かに誰かが紹介していたから買うのかもしれない。が、その紹介に何か自分が思うところがあったから買おうと思うのであって、それはやはり内容とはまったく無関係であるとは言い切れない。となると、やはり内容も……。


 たぶん、勤務する店なり部署が変わればまた考え方は変化していくだろう。書店員は顧客によって応じて変化するものだから。なので良し悪しではないし、正しいとか正しくないという問題でもないのだ。


 以上、長々と自分の経験を振り返ってみた。書店員一人ひとりの経験は個別具体的であるが、そこには何かしら共通項として原理的に抽出しうる要素が含まれているだろう。自分の経験を一般化するつもりはないが、部分部分では他の書店員にも多少は共通する要素があるだろう、と記すにここではとどめておく。



3.本という商品の「無理」

 どんな商品でも――食品であれ家電であれ車であれ――、作り手が渾身の思い入れを以て作り上げたものがある。もちろん、それなりにそこそこに、というものもある。それはそれでよい。すべては顧客ニーズとのマッチングで決まる。作り手は思い入れがあるけれども、やっぱり売れなかったというものもあるだろうし、逆に、思い入れが通じたかのごとく売れていく商品もある。どちらもありふれた光景だ。


 本という商品でも、それは同じことだと思う。商品として流通させる/する以上、売れるか売れないか、しかないはずだけれども、それだけでは割り切れないものがある。でも、本、すなわち言葉をパッケージ化したこの商品は、割り切れないものの比重が相対的に高いのではないかという気がどうにもしてくる。実際、今回取り上げた事例で言えば、背派とはいえやはり内容を無視するわけにはいかない。


 僕が当事者でもあるからだろうか、どうやら本という商品、言葉をパッケージ化した商品は、時として過剰な思い入れがつきまとうように思われる。言葉を広くあまねく流通させるには、本という形で商品化するのが有効な手段の一つであることは間違いない。商品としての流通を突き抜けて何らかの生命力をもつような、そんな言葉もあるかもしれない。しかし、商品化するにそぐわない言葉も、ひょっとしたらあるのではないか。


 鳴り物入りで創刊される「言論誌」や、自信満々に売り込んでくる自費出版物を見るたびに「そんなにあなたが思っているほど売れはしませんぜ」と思う。内輪で地道にやれば如何、と思う。同時に、ごく普通に流通していて、地味な本ではあるけれども、読者としての僕には実に大切で手放せないと思うような本も、少なからずある。


 そもそも、言葉を商品化することは可能なのだろうか。ふと思い起こすのが、下記。

 
 人間の労働力が自然に働きかけて物を生産し、その物によって労働力を再生産するといういわゆる自然と人間との間の物質代謝の過程が――それはあらゆる社会において行われている過程であるが――資本主義社会では商品形態を通して資本の生産過程として行われているのであって、そこに資本主義に特有な形態的な無理がある。資本は、その形態として当然に要請せられる無限の蓄積を続けようとしても、この点で続け得なくなる

                             宇野弘蔵、『恐慌論』、岩波文庫、P.125


 
 商品化した/された言葉とは何か。他者が商品化した言葉を売ってメシを食う自分は、何なのか。
 

 他者の言葉を、何らかの理由から売りたいと考える。POPのひとつでも書いてみようと思う。1枚や2枚は書ける。しかし、枚数を重ねていくごとに、同じような言い回しを何度も使っていたことに、気づく(例:「気鋭」)。あるいは、無意識のうちに作り上げたパターンをなぞっているだけのことに、気づく。内容派であれ背派であれ、そんな経験をしたことはないか。他者の言葉を自分の言葉で表現する矛盾を、他者の言葉の一部をクローズアップして伝えようとすることの空虚さを、無意識のうちに感じ取ってはいないか。

 
 ……割り切ってしまうのは大切なことだ。深く考えない方が精神衛生上よろしい。「無理」は、資本主義社会における様々な問題と同様、無視しようと思えば案外簡単にできる。あるいは、「無理」をなんとか乗り越えようと試みてみることも出来る。店や会社の枠を超えて書店員同士で集まろうとすることも出来るし、著者と接点を持とうとあがいてみることも出来るし、版元さんと関係を密にしていくことも出来る。きっとどれもそれなりに根拠があって、それなりに重要なことなのだ。


 その先にあるのははたして何だろう。それを考えるために、僕は「自分を問う」(大澤信亮)という作業をしなければならない。そのためにこの書店員イデオロギー論を書き散らしているのだが、どうもやはり、より個人的な問題を見つめなおす作業が必要になってくるようだ。それは、他者の問いを共有することは可能か、というテーマとして、漠然と、しかし確実に、僕の身の上に覆いかぶさっている。


 
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by todoroki-tetsu | 2012-01-08 21:19 | Comments(0)

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