書店員イデオロギー論(5)「自己表出」「指示表出」を手がかりに

 当たり前のことだが、書店員はパッケージ化された言葉を売る/買って頂くのが仕事であって、書くことが仕事ではない。仕事と切り離して個人的に何かを書くのはもちろんあり得るだろう。その是非を云々したいわけではない。しかし、書店員が書店員として仕事をする、その局面を考える場合において、理論的第一義的には、書き手の思いを忖度するよりも、顧客が買ってくれるかどうかを考えることが先であるということを確認しておきたい。書店員風情がその立場と力量以上に何かを出来るなどと思ってしまう不遜を予め警戒しよう。

 
 もっとシンプルにいえば、著者という他者の言葉を、顧客という他者に売る、それが書店員の仕事である。他者と他者とを仲立ちするというわけだ。

 
 それを前提とした上で、「売りたい」と思う本が売れたり売れなかったりするということ、別段売れると思っていないかった/あんまり売りたくないなと思っていた本が思いのほか売れたりやっぱり売れなかったりするということについて、考えてみたい。主に書店員個人=次元Ⅰを想定する。



1.言葉がパッケージ化される過程から
 
 前言と矛盾するようだが、言葉がパッケージ化される過程、より直接には著者に近いところから考え始める。それがやはり起源であるということと、そうすることで参照項を拡げたいと思うからだ。参照項は、吉本隆明さんの『言語にとって美とはなにか』。二か所ほど引いておこう。


引用A 
 芸術の内容形式も、表現せられた芸術(作品)そのもののなかにしか存在しないし設定されない。そして、これを表現したものは、じっさいの人間だ。それは、さまざまな生活と、内的形成をもって、ひとつの時代のひとつの社会の土台のなかにいる。その意味では、もちろんこのあいだに、橋を架けることができる。この橋こそは不可視の<かささぎのわたせる橋>(自己表出)であり、芸術の起源につながっている特質だというべきだ。         
                                    『Ⅱ』(角川文庫、P.240)



引用B 
 ……自己表出の極限で言語は、沈黙とおなじように表現することがじぶんの意識にだけ反響するじぶんの外へのおしだしであり、指示表出の極限で言語はたんなる記号だと想定することができる。そして人間の言語はどんな場面でつかわれても、このふたつの極限のすがたがかさなって存在している。

                                    『Ⅱ』(角川文庫、P.279)

 
 
 吉本さんの自己表出/指示表出の概念を、ちゃんと理解している自信はまったくない。考えるヒントにはなるししたいな、と思う程度である。


 著者が書きたいと思うことをそのまま書き、それが比較的スムーズにパッケージ化され、かつ売れた場合には、著者の自己表出がそのまま顧客ニーズを体現していたということになる。売れなかった場合には、その自己表出は顧客ニーズにはあわなかったということになる。


 ところで、著者の自己表出は純然たる自分の中から出たものなのか、それとも実のところ指示表出をそうとう意識したものなのか、その切り分けは難しい。「人間の言語はどんな場面でつかわれても、このふたつの極限のすがたがかさなって存在している」(引用B)からだ。しかし、「誰が何と言おうとこれを書きたいのだ」という思いのほうが相対的に強い場合と、「とにかく広く読んでほしい(買ってほしい)」という思いが相対的に強い場合とは、たしかにあるように思える。前者は時としてわがままに映り、後者は時としてあざとく見える。どちらも大事なことなのだが。


 「誰が何と言おうとこれを書きたいのだ」が、編集者・営業・書店員のいずれもが「あ、それはいいですね。売れそうです」と思ってパッケージ化され、受け取ることが出来れば、そしてその結果として他者=顧客がカネをはらってくれるのであれば、その場合著者の自己表出は、「不可視の<かささぎのわたせる橋>」を、着実に架けていることになる。


 が、大概の場合においては、前回記したように様々な葛藤を経てパッケージ化される。そこでは常に自己表出と指示表出のせめぎ合いがあるということが出来る。



2.書店員が個人として「売りたい」と思うというのはどういうことか

 「著者という他者の言葉を、顧客という他者に売る、それが書店員の仕事である」と冒頭に記した。経験の蓄積などからくる顧客ニーズ認識を基に発注し、陳列することが主な仕事であるわけだが、中には「売れないかもしれないけれども、試してみたい」と思うことはやはり、ある。
 
 
 その時、書店員個人の問題意識を他者の言葉である本に託すというような場合もあれば、「ちょっと目先を変えてみるか」という比較的軽い気持ちの場合もある。これは、良し悪しの問題ではない。前者は、書店員個人がその問題意識を自己表出として他者の言葉に託していると考えてみることができるだろう。後者を指示表出の仮託と言いうるかは判らないが。


 さて、書店員個人の問題意識があるがゆえに、自制する場合もある。前回のエントリでちらと社会運動系の本について記しておいたけれども、もっと言ってしまえば、デモに行く書店員がデモの本を力を入れて売るとは限らない。かえって「これはこれ。それはそれ」と区別してしまうことだってある。まあ、これは僕のことなのだが。この場合、デモの現場での盛り上がりが書店に反映するわけではないことを経験則上知っているからであり、また結果を出そうとすれば相当の工夫が必要と自覚しているから二の足を踏むのである。この二の足が間違っているかどうかは、やはり顧客の審判を待つほかはない。


 書店員個人が何らかの問題意識をもって「売れないかもしれないけれども、試してみたい」と思った場合、それは書店員個人が優れて顧客ニーズの動向を観察しているか、あるいは書店員個人が実は顧客自身としてニーズを認識していたか、そのいずれかであろう。どちらの場合もあり得るし、たぶん複合している。前者は商売人としての徹底化の結果であり、後者は個人の問題意識でありながら実は顧客ニーズそのものであった、すなわち顧客との同一化である。「芸術の内容も形式も、表現せられた芸術(作品)そのもののなかにしか存在しないし設定されない。そして、これを表現したものは、じっさいの人間だ。それは、さまざまな生活と、内的形成をもって、ひとつの時代のひとつの社会の土台のなかにいる」(引用A)を、商売人として表現すれば前者になるし、広く社会的な文脈に引き付けるならば、後者の表現となるだろう。

 
 さらに言えばそれが結果に結びついた時、意識的な場合もあるだろうし、無意識な場合もある。顧客が「ここに並んでいたのでつい買ってしまった」という時、それは無意識の顧客ニーズが商品との出会いによって顕在化したのだということが出来る。


 ここで考える必要がさらに出てきたのは、言葉のパッケージの商品としての旬・寿命・生命力という問題だ。今までは主に新刊を想定してきたが、新刊の中にも10年後に残っていくものもあるだろうし、三ヶ月で売り切っておしまいというものもある。ほとんどはその莫大な中間地帯に在るだろう。時系列の考察が必要となる。


 書けば書くほど考えることが増えていく。よいだろう。あせらずにやっていこう。
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by todoroki-tetsu | 2012-01-02 11:10 | Comments(0)

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