備忘録:「経営者」イデオロギーについて

 そのうち考えるかもしれないことのための、備忘録。

1)経営者と労働者の対立は、ある。だが、その境目あるいは閾値はどこにあるのか。

2)「実態」としては労働者にもかかわらず、経営者としての発想を身につけることは多く見られる(実例:所謂ビジネス書と労働問題本との圧倒的な市場規模の差)。その「実態」をどのように把握するか。

3)労働の実態と生活の実態。多くの場合においてその個人が大部分の時間を過ごす職場に即して観察し、考えること。職場の社会学(≠労働社会学)の構築の必要性。

4)権限の範囲、責任の範囲、賃金、業務内容の個別ならびに総合的調査の必要性。「中間管理職」的立場の若年化。特に正社員における業務の「無限」の拡大の及ぼす影響。

5)業務の拡大≒管理責任の拡大。「正社員なんだから……」と自分を納得させつつ、「正社員とはいえ……」と自問する。それを「正社員なんだから……」と納得・説得させるのが管理職の仕事となる。ここに、2)を考えるカギがあるように思われる。

6)5)は、外的内的要因によってその所属する経営組織が選択した結果として生じる。受動的ではなく主体的でありたいと考えた労働者は、経営組織の意思決定に参加しようとするか、さもなくばその意思決定を主体的に受けとめようと努力する。皮肉なことに、形は違えど経営者の思考ににじり寄ることにかわりないように見える。

7)6)をそのまま皮肉として嘲笑してはならない。断じてならない。個人に即してその皮肉の意味を考えること。

8)経営者の思考は端的に、決算書の見方にあらわれる。人件費は経費か投資か。固定費用か変動費用か。数字そのものよりも、その判断にかかっている。それは、数字の向こうに生身の人間を見出せるかどうかにかなりの程度賭けられる。数字の見方はひとつではない。

9)労働者の誰でも、仮に経営者にいきなりなったとした場合、業務内容が変わる以上発想が変化せざるを得ない。もちろん、だからと言って労使対立が無意味なわけでも不要なわけでもない。原理的な意味で、労働組合は労使にとって必要なことは言うまでもない。

10)9)に関連して。同じ人間でもおかれた立場、なすべき業務によって発想が変わるということ。これは当たり前のことのように思える。その中で、変わったからと開き直るか、そうはいっても……、と多少なりとも踏みとどまるか。個人の世界観はここにあらわれる。ひょっとすると、ここ「のみ」なのかもしれない。

11)おかれた立場、なすべき業務が変われば個人の発想が変わる、とするならば。個人固有の思想は消えるとまでは言わずとも相当程度姿を潜め、「物質的基盤」(!)などをその根拠としたイデオロギーが人間に反映しているだけだということになってしまうかもしれない。その手前で立ち止まらなければならないが、立ち止まるべき場所はどこにあるのか、見極めること。

12)労働者と経営者の対立は、ある。その対立は覆い隠してはならない。だが、本当に撃たなければならないのは何なのか。それが経営者個人の場合ももちろんある。しかし、それだけだろうか?

13)3)でいう「職場の社会学」の構築と同時に必要なのは、経営者の類型化。根っからの経営者、労働者から転じた経営者の比較、など。生きた実例として堤清二=辻井喬への興味は尽きぬが、対象を幅広くとること。

14)経営者は経営者の理屈がある。同様に、労働者には労働者の理屈がある。この両者は対立するものであり、たたかいであることは言うまでもない。しかし、どちらも人間ではないのかと考えてみる。人間には人間の理屈がある。人間の理屈の上で、経営者の理屈と労働者の理屈があるのではないのか。どちらが人間の理屈を体現しているか。人間の理屈から離れてしまっているのはどちらの理屈か。

15)14)を考えるには、3)と13)のような実態調査と同時に、「関係の絶対性」(吉本隆明)を手がかりに理論上のモデルを構築することは出来ないか。中期(?)見田宗介の社会理論に学ぶことが出来ないか。

16)批判しているものにいつの間にか取り込まれている。そんな光景は何度も見てきたし、自分自身もそんな光景から逃れられていない。開き直りはいつでも出来る(すでにかなりしているが)。とどまるとしたら、ほんの少しずつでも、考え続けるしか途はない。
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by todoroki-tetsu | 2011-10-25 14:35 | 業界 | Comments(0)

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