グスコーブドリ私論(7)

7.『20世紀少年』

 ブドリを犠牲にして生き延びたという事実を、生き延びた人間が受け止めていくのは容易ではない。単なる英雄化はその補償作用である。

 ここで読み方について以前些かの留保をつけておいた、ブドリの事実上の遺言ともとれる言葉に立ち返ろう。

 「私のやうなものは、これから沢山できます。私よりもつともつと何でもできる人が、私よりもつと立派にもつと美しく、仕事をしたり笑つたりして行くのですから」(P.270)


 この言葉を、生き延びた人間はどう受け止めることができるだろうか。

 この言葉通りに「仕事をしたり笑つたりして行く」ことが出来るようになるまでには、相当の時間と苦労が必要に思える。自暴自棄になることもあるだろう。ネリの息子は犠牲者の甥である、そのことの重圧に負けたりはしないだろうか。

 自分の死をそんな風に思わないでほしい、ブドリはそう考えたはずだ。ブドリの思い描いたのはそんな世界ではない。だけれども、生き延びた側には生き延びた側の理屈と感情が、ある。そうそう簡単には「はい判りました」とは言えない何かがある。

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 ここで賢治作品とはまったくかけ離れた作品、『20世紀少年』を参照項にしたい。ブドリ死後のイーハトーブの人々を、ネリの息子を想像するにはまったく情況がかけ離れているのかもしれない。けれど、誰かの犠牲によって生き延びた/生き延びてしまった人間のことを考える上で、またとないテキストだと考えられる。

 この作品について粗筋を記そうとするのは野暮だ。省略しよう。今ここで参照したいのは18巻における遠藤カンナの姿である。

 “ともだち”の人類滅亡計画によってばらまかれたウィルス。そのワクチンはある資格を持った限られた人にしか与えられない。このワクチンを巡って壮絶な殺し合いが各地で起きている(その描写は17巻に詳しい)。カンナのところにもワクチンは送られてくるが、自分にはそれを打つ気はない。

 カンナを生き延びさせよう考える、彼女と親しいマフィアたちは一芝居うつ。みんなでワクチンを打つようにすれば彼女もそれにならうだろう。芝居は成功する。カンナは本物のワクチンを、マフィアたちはただのブドウ糖をそれと見せかけて打つ。

 その後マフィアたちは”ともだち”に対して総攻撃をかけるが、おそらくは全滅をする。すべてが終わった後に事実をカンナに知らせたマフィアの大ボスチャイポンは、こう言い遺す。

 「生きるんだ、カンナ……。みんながこう言ってた……。おまえは、希望の星だ……。おまえは私たちの……娘だ……」(P.57)


 マフィアたちはカンナを「希望」として捉え、何としても生かそうとした。

 しかし、カンナはこの事件以来むしろ冷徹になる。「氷の女王」と呼ばれる。自滅ともいえる武装蜂起に全てを賭けようとする。

 マフィアたちはカンナにそんなことを望んでいたのではない。だが、彼らの犠牲によって生き延びたカンナはむしろその事実に食いつぶされていくように思える。カンナはこう絶叫する。

 「みんなは、あたしにワクチンを打たせるために大芝居を……。でも、でもあたしは本当は……打ちたかった……!! あたしは自分一人だけ生きたかったからワクチンを打ったの!!」(p.58-9)


 この過程は極めてリアルだ。誰かの犠牲を受け止めることのむずかしさが明確にえがかれている。

 だが、ここで話は終わらない。武装蜂起を何としても止めようとするオッチョが登場する。

 「命が危ないと思ったら、一目散に逃げろと言った男がいた……。おまえの中でその男は生きているはずだ」(p.59-60)


 こう説得しようとするオッチョも、実は偶然によってワクチンを打たれている。そのワクチンは、オッチョが直接手を下したわけではないのだが、ひょっとすると3歳くらいの女の子の命を奪って得られたものかもしれないのだ。その絶望を、オッチョは背負っている。

 そのオッチョが、そもそもは遠藤ケンヂの発した「命が危ないと思ったら、一目散に逃げろ」という言葉でもってカンナを生かそうとしている。
 
 結果としてはオッチョ単独では説得には成功出来なかった。結局は、ケンヂが生き延びているかもしれない可能性をラジオが受信することによって説得は成功するわけだが、しかしその偶然はオッチョの一連の行動によって引き起こされたものでもある。

 この一連の光景から、引き出せるものがあるように思える。

 整理しよう。

 まず第一に、犠牲になった者が希望を託したとしても、希望を託された側はその犠牲の重さによってむしろ希望とは離れた方向に向かう可能性があるということ(武装蜂起を準備するカンナ)。

 第二に、その可能性を生かすか殺すかは、生き延びた人間どうしの関係にかかっているということ(カンナを説得するオッチョ)。

 そして第三に、生き延びた人間どうしを関係づけているのは、ケンヂの言葉であるということ。ケンヂの言葉を幼いカンナも直接聞いているのだが(第5巻)、カンナはそれを受け止め損なっている。こうした説得の後にも関わらず、再度自分が死ぬことを前提とした暴挙に出てしまうこと(第20巻)からも、その受け止め損ないは深刻だと思われる。が、それは当然あり得るようなものとして読める。

 多少の時系列を無視してしまうが、オッチョもマルオもユキジも、ケンヂの言葉をいわば遺言のように受け止めて――実際ケンヂは生き延びていたわけだが、それが判るのはずいぶん後のことだから「遺言」と表現しておく――、自分自身の中にプログラムのように組み込んで行動している。カンナにも同じ言葉は届いているが、それを組み込めてはいない。

 もちろん、組み込めないのが悪いとか、カンナはいまいち判っていないとか、そういうことではない。生き延びた人間どうしが、ケンヂの遺言というプログラムを巡って関係を作っていること、こここそが重要だ。

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 ここでようやくブドリに話を戻すことが出来る。今指摘した第一の点と第二の点については、そのままブドリの死後を生き延びる人々にあてはめて考えることが出来るだろう。問題は第三の点だ。オッチョたちがケンヂの遺言をプログラム化したとするならば、生き延びた人々――いや、僕たちは、ブドリの遺言をどのようにプログラムとして組み込むことが出来るだろうか。
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by todoroki-tetsu | 2011-10-20 20:56 | 批評系 | Comments(0)

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