グスコーブドリ私論(5)

5.ペンネン技師に寄り添う

 ここで、ブドリが最初にペンネンと出会った時のことを振り返ってみたい。ブドリの主体的な必然=覚悟をより強固にしたのは、ペンネン技師その人であったかもしれないのだ。

 ペンネンは初対面のブドリに対し、自分たちの仕事についてこう語って聞かせる。

 「ここの仕事は、去年はじまつたばかりですが、じつに責任のあるもので、それに半分はいつ噴火するかわからない火山の上で仕事するものなのです。それに火山の癖といふものは、なかなか学問でわかることではないのです。われわれはこれからよほどしつかりやらなければならんのです」(P.254-5)


 ペンネンは「なかなか学問でわかることではない」とはっきり言いきっている。これはいかにも実務家らしい認識で、共感しないわけにはいかない。しかし、つづく言葉が「しつかりやらなければならん」であるということに注意したい。

 いったい、賢治が「しつかりやる」といった時に意味するところは何だろうか。この点は、専門には批評家と研究者の手にゆだねざるをえないだろう。しかし、生半可な賢治読者である僕にも、保坂嘉内あての手紙(文庫版全集9巻、P.231-2)で21回も繰り返される「しっかりやりませう」を連想することは出来る。どうやら何か特別な思いが、賢治の発する「しつかりやる」という言葉には含まれているように思える。

 この激情にみちた手紙よりは、「銀河鉄道の夜」(文庫版全集7巻)における次のくだりのほうが、補助線として適切かもしれない。

「カムパネルラ、また僕たち二人きりになつたねえ、どこまでもどこまでも一緒に行かう。僕はもうあのさそりのやうにほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない。」
「うん。僕だつてさうだ。」カムパネルラの眼にはきれいな涙がうかんでゐました。
「けれどもほんたうのさいはひは一体何だらう。」ジョバンニが云ひました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云ひました。
「僕たちしつかりやらうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧くやうにふうと息をしながら云ひました。(P.292)


 「しつかりやる」=「ほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない」と言ってよいのかまでは判らない。けれど、かなり近似値とみなしてよさそうだ。これをもってペンネン技師がブドリの死を予言したというのはうがち過ぎている。しかし、「しつかりやらなければならん」と口にしたペンネン技師が、ブドリの覚悟に「だまつて首を垂れてしま」うほかなかったことは忘れてはいけない。「しつかりやらなければならん」と口にした人間が、その言葉を身を以て実行せんとする若者と対峙する時、止める手立てがどれほどあるだろう。

 ペンネン技師は決して初対面のブドリに命を投げ出せとまでは思わなかったろう。身の危険のある仕事だが、やりがいがあるし、いっしょに頑張りましょう。そんな程度のことだったかもしれない。しかし、ペンネンの心の奥底にはどこか「僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない」に通ずるものがなかったか。

 こうしたことは今でもなお、僕自身の、僕たちの身のまわりにあふれているように思える。

 自らの選び取った必然に裏打ちされた、覚悟した個人が自然=世界と対峙する。その姿は美しく、気高い。なんびとをも寄せ付けぬ気高さ。

 だからこそ注意しよう。その美しさが失政や職場の問題を覆い隠してしまうことに。賢治が企図してかせずかは知らないが、とにもかくにも巧みに隠したこの問題に、目を凝らそう。そして「だまつて首を垂れ」るほかなかったペンネン技師の悲しみに、寄り添おう。

 しかし、今まで記したようなブドリとそのまわりへの目の凝らし方には、至極まっとうな反論がいくつも出てくるだろう。中でも予想されるのは、「政治や社会だのを持ち出しても意味がない。今この場ですぐに冷害を食い止めなければみんなが飢饉で苦しんでしまう。いかに追いやられようが火山局の姿勢がなんであろうが、それを救おうとするブドリは、目の前の現実に精一杯立ち向かったではないか。その意義は誰もが認めざるを得ないはずだ」といったものだろう。何のことはない、この私論の最初のほうで記した僕自身の今までの「甘美」に魅せられた読み方である。
 
 この問いに応えるには、おそらくこう考えるほかに途はない。

 ブドリは、本当に他者を救い得たか?
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by todoroki-tetsu | 2011-10-18 05:05 | 批評系 | Comments(0)

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