グスコーブドリ私論(4)

4.ブドリとそのまわりに目を凝らす
 
 ブドリは、本当に死ぬ必要があったのだろうか。そう問いを立ててみる。さんざん必然だと言ってきたが、それは本当なのか、疑ってみる。ブドリとそのまわりに目を凝らすとは、そういうことだ。

 そんな風に冷静に(意地悪く)読んでみると、気づくことがいくつかある。

 ひとつは、冷夏による飢饉が問題なのであれば、それは自然科学というか技術の問題なのではなく、むしろ政治の問題なのではないかということ。飢饉を生き延びるだけの蓄えを、政治がしてこなかった(もちろん、政治にさせなかった、という認識も含む)、そう考えてみることが出来そうに思う。事実、ブドリたちが雨や肥料を降らせるのに成功した期間が、5年程度はあったわけだ。ブドリが「あの年のブドリの家族」を思って居ても立ってもならなくなるのは正しい。が、冷夏による不作を乗り切る程度の収穫が蓄えられ、何とかみんなが生き延びることが出来そうなくらいの準備が出来ていたとしたら、何もブドリはあそこまで思いつめる必要はなかった。備えの不足は、明らかに失政によるものではないのか。冷夏が何年も何年も続いた末であればまだブドリの死も判る。だけれど、5年の間は作柄の好調が続いたのだ。5年という月日が蓄えるに十分な月日かどうか知らないが、必ずしも短すぎた期間とは思えない、そうした政治や社会を志向していたならば、だが。

 そうしてみると、ブドリの死は自ら選び取った必然などでは決してなく、失政とそれを許容した社会によって死に追いやられた、強いられた必然と言えるのではあるまいか。いや、賢治がこれを書いた時点において、当然冷夏、不作、そして飢饉はそうした政治なり社会なりを介在させうるような問題ではなかったのかもしれない。僕のこの読み方はあくまで後知恵でしかない。けれど、2011年にこの物語を読むならば、そして今本当にこの物語から何かを得ようとするならば、こうした後知恵は決して無意味ではあるまい。

 ふたつめは、本当にカルボナード島には一人残ることが必要であったのかどうか、ということ。何とかブドリが逃げ得る方策を見つけることが出来なかったのかどうか。少なくとも物語からはブドリが逃げ得る/生き延びる方策を検討した形跡を読みとることが出来ない。ブドリ自身にもクーボーにもペンネンにも、そして火山局にも。時間も差し迫っていたのだろうし、本当に難しいことであっただろう。でも、ブドリは逃げ遅れたのではない。最初から死ぬことが分かっていてカルボナード島に赴いたのだ。逃げることはハナから想定してもされてもいない。火山局は、その技師を仕事のために見殺しにしたのだ。

 もちろん、これもある種の言いがかりなのは判っている。けれど、労働という観点からみるならば、そしてこの物語を読む僕が日々働いている以上、こうしたことはぜひとも考えておかねばならいのではないかという気になってくる。身の危険のある労働はいっぱいあるし、結果として命を落とすこともある、だけれどもそうならないように最大限の努力をするのは使用者の責任ではないか。そういう眼差しを持たないわけにはいかない。これもまた、2011年の今だからこそ、と記しておきたい。

 政治社会という存在・課題の欠落、あるいは火山局の労働安全衛生の不備は、当然のことながらこの物語の瑕疵を意味しない。それどころか、ここでそんなことを言ってしまうと、どうにも元も子もないような気にさせられる。実に巧妙である。

 その巧さは、ひとえにペンネン技師のえがかれ方によると思われる。クライマックス直前、ブドリとペンネンの最後の会話では、ブドリが一人残らざるを得ない状況を、「老技師はだまつて首を垂れてしまいました」の一言に集約した。技術としても大変に一人の犠牲を回避することが難しいこと、また多数を救うために一人が犠牲になるのは致し方ない、あるいはブドリの他者(未来でもあり過去でもある自分)を救おうという決意には抗い得ないこと……それらがすべて首を垂れた老技師の姿で表現される。この姿があまりに巧くえがかれているので、政治社会や火山局の問題からは目が逸らされる。ブドリ個人とペンネン個人の関係に置換されるかのように隠されていく。そして行き着くところはブドリ個人の主体的な必然=覚悟より他はなく、物語は終末へと急いでいく。

 ここでもう少し、ペンネン技師その人に目を凝らしてみよう。
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by todoroki-tetsu | 2011-10-17 12:49 | 批評系 | Comments(0)

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