グスコーブドリ私論(2)

2.ブドリの必然


 ブドリは自分の生命を以て冷害を食い止め、多数の人を救った。献身、奉仕、殉死……どのような表現がよいのか判らない。が、ここでは犠牲という言葉を用いたい。

 ブドリは多数の人を救ったが、それは「世のため人のため」とか「他人に親切に」とかいった、一方的に他者へ奉仕するような次元でないことは明らかだ。ブドリは自分のため、自分を生かすために死を選んだ。そう読める。少し丁寧にその生涯を追いなおしてみよう。

 ブドリとその一家は、彼が10歳の時の夏とその次の年にあいついだ冷害で、飢饉に見舞われる。それまでブドリが過ごしていたであろう森の中での幸福な日々の描写がすぐさま切なさを帯びてくる。それから火山局に職を得るおそらく18歳くらいまで――正確な年数推定ではないが、てぐす飼いと赤鬚の山師のもとで働いた期間を計7年程度と考えておく――の間、作柄が並み以上であったと思えるのは山師のところで働いたうちの1年しかない。両親と妹を失った体験も想像するに余りあるが、10代のブドリにとって自然は大いなる脅威として観念されたように思われる。

 山師のもとを離れイーハトーブへ向かう汽車の中で、ブドリは思う。

 「早くイーハトーブの市に着いて、あの親切な本を書いたクーボーといふ人に会ひ、できるなら、働きながら勉強して、みんながあんなにつらひ思ひをしないで沼ばたけを作れるやう、また火山の灰だのひでりだの寒さだのを除く工夫をしたいと思ふと、汽車さへまどろこくつてたまらないくらゐでした」(P.249)


 ブドリはこの念願を果たす。潮汐発電所の建設によって得られたエネルギーで――仕組みがどういうものなのかはさっぱりわからないが――雨や肥料を降らせることが出来るようになったのだ。その達成感はいかなるものであったろう。

 「ブドリはもううれしくつてはね上りたいくらゐでした。この雲の下で昔の赤鬚の主人もとなりの石油がこやしになるかと云つた人も、みんなよろこんで雨の音を聞いてゐる。そしてあすの朝は、見違へるやうに緑いろになつたオリザの株を手で撫でたりするだらう、まるで夢のやうだと思ひながら雲のまつくらになつたり、また美しく輝いたりするのを眺めて居りました」(P.264)


 こうした幸福は5年ほど続いた。そしてブドリが27歳の時、10歳の自分を襲ったのと同じ冷夏の兆候が現れる。

 「ところが6月もはじめになつて、まだ黄いろなオリザの苗や、芽を出さない樹を見ますと、ブドリはもう居ても立つてもゐられませんでした。このままで過ぎるなら、森にも野原にも、ちやうどあの年のブドリの家族のやうになる人がたくさんできるのです」(P.269)

 
 ブドリはクーボー博士に相談する。カルボナード島を噴火させることが出来れば気温を上げることが出来るかもしれない。しかし、島に残る最後の一人はどうしても逃げられない。その一人となりたいと言うブドリを博士は慰留するが、それに対してはこう応える。

 「私のやうなものは、これから沢山できます。私よりもつともつと何でもできる人が、私よりもつと立派にもつと美しく、仕事をしたり笑つたりして行くのですから」(P.270)


 そこでクーボーはペンネン技師に相談するように促す。ブドリの話を聞いたペンネンは、今年もう63歳になるのだから自分が島に残る、という。しかし、

 「先生、けれどもこの仕事はまだあんまり不確かです。一ぺんうまく爆発しても間もなく瓦斯が雨にとられてしまふかもしれませんし、また何もかも思つた通りいかないかもしれません。先生が今度お出でになつてしまつては、あと何も工夫がつかなくなると存じます」(P.270)


 これを聞いたペンネンは「だまつて首を垂れてしまひました」。

 そして、この物語はこう締めくくられる。

 「すつかり仕度ができると、ブドリはみんなを船で帰してしまつて、じぶんは一人島に残りました。
 そしてその次の日、イーハトーブの人たちは、青ぞらが緑いろに濁り、日や月が銅(あかがね)いろになつたのを見ました。けれどもそれから三四日たちますと、気候はぐんぐん暖くなつてきて、その秋はほぼ普通の作柄になりました。そしてちやうど、このお話のはじまりのやうになる筈の、たくさんのブドリのお父さんやお母さんは、たくさんのブドリやネリといつしょに、その冬を暖いたべものと、明るい薪で楽しく暮すことができたのでした。」(P.270-1)


 以上がやや丁寧に追ったブドリの生涯である。この中で僕が必ずと言っていいほど目頭を熱くしてしまうのはこの個所だ。

 「ところが6月もはじめになつて、まだ黄いろなオリザの苗や、芽を出さない樹を見ますと、ブドリはもう居ても立つてもゐられませんでした。このままで過ぎるなら、森にも野原にも、ちやうどあの年のブドリの家族のやうになる人がたくさんできるのです」


 ブドリは漠然とした他者をイメージしたのではない。極めて具体的に、「あの年のブドリの家族」を思い描いた。だから「居ても立つてもゐられ」なくなったのだ。ブドリは未来=過去の自分を、今、ここで救おうとしたのだ。ここには美しくて非情な「必然」がある。甘美とすらいっていい。このブドリを貶める奴は何人たりとも許すもんか。そんな思いまでしてくる。心の底からブドリを称賛したくなってくる。ブドリは自分と他者を生かすために、身を投げ出したのだ。おそらくこの物語に抗しがたい魅力を僕が感じているのはここである。 

 ほかにも、

 「私のやうなものは、これから沢山できます。私よりもつともつと何でもできる人が、私よりもつと立派にもつと美しく、仕事をしたり笑つたりして行くのですから」(P.270)


 といった部分にもグッときてしまうことがある(「マリヴロンの少女」も好きな賢治作品の一つである)けれども、最近はなぜだか少し警戒をもってこのくだりを読むようになっている。

 さて、先に「必然」という言葉を使った。それはブドリの生い立ちに由来するものとして使ったのだが、ほんの少しだけ別の角度から、必然という言葉を使えるように思う。それは自然との関係においてである。

 ブドリの生涯を強烈に運命づけたのは、10歳の時に経験した冷害である。圧倒的な脅威としての自然。10代のうちのほとんどを自然に翻弄されて暮してきたブドリにとって、「みんながあんなにつらひ思ひをしないで沼ばたけを作れるやう、また火山の灰だのひでりだの寒さだのを除く工夫をしたい」というのは文字通りの悲願だ。そして、それは少なくともひでりや肥料に関わる苦労については取り除くことが出来るところまでには到達した。上記では省略したが、火山の噴火も事前に察知して、少なくとも市街地などに大きな被害を及ぼさない程度には自然の力を調整できる技術レベルに到達しているのだ。

 圧倒的な脅威である自然。でもそれを何とか出来るようになってきた技術の進歩。しかし、冷害だけは今までの技術だけでは不足する。しかし、幸か不幸か、ひとつだけ可能性が、あった。たった一人が最後まで火山島に残れば、冷害を食い止めることが出来るかもしれない。だとしたら、技師ブドリはその可能性に賭けるほかないではないか。これもまた称賛に値しよう。ここに、自然と人間(の技術)が対峙する際に生じるであろう必然を見出すことが出来る。
 
 自分の生い立ちに由来する必然と、自然と対峙する人間の必然。このおそらくは同じだが見る角度によって少し色合いを異にするであろう必然と手を携え、ブドリは27歳の死へと一直線に進んでいく。実に完璧な物語である。
[PR]

by todoroki-tetsu | 2011-10-15 00:03 | 批評系 | Comments(0)

<< グスコーブドリ私論(3) グスコーブドリ私論(1) >>