グスコーブドリ私論(1)

1.はじめに


 宮沢賢治の数少ない長篇のひとつ、『グスコーブドリの伝記』は、例えば同じ長篇の範疇に入る『銀河鉄道の夜』などに比べてさほどメジャーとはいえない。もっとも、賢治をある程度読んでいる人には知られているだろうから、何を以てメジャーとするのかはこう記している僕自身あまりよく判っていない。

 この『グスコーブドリの伝記』に僕が最初に出会ったのは小学生の頃だ。以来この四半世紀、ある時には意図して、ある時は無意識に、この作品を引っ張り出しては読み返してきた。

 何度読んでも目頭が熱くなる。自らの生をもって多くの人を救ったブドリ。自分もそうなってみたいものだ、と思う。けれど、そんなことは出来やしない。そんなことの繰り返しの中で、それでもブドリの物語を読むことをやめない。

 それはどういうことなのだろうか? どうしようもなく意識をせざるを得ない2011年の秋というこの現在において、『グスコーブドリの伝記』四半世紀分の感想文を、何日かかけて記してみようと思う。

 文庫本にしてわずか40頁程度の長篇は、その名の通りグスコーブドリという男の27年の生涯の物語だ。ささやかでしあわせな生活を送っていた少年ブドリだが、冷害による飢饉によって家族はバラバラとなる。様々な苦労を重ねて働きながら技術者となり、雨や肥料を人工的に降らせるなどして人々の生活を楽にできるようなところにまでたどり着く。が、幼いころ自分を襲った冷害が再びやってきそうなことを知り、自らの命を賭して火山島を噴火させ、冷害を防ぐ。

 こんな不十分な粗筋紹介よりは、実際に読んでもらったほうが何倍も話は早い。そして、未読の人が一人でも多く読んでみてほしい、そう思う。この物語が、何らかのテクストとしての役割を果たすことを、恐る恐る願っている。


 なお、引用にあたっては筑摩文庫版全集を用いる。
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by todoroki-tetsu | 2011-10-14 22:31 | 批評系 | Comments(0)

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