8・27脱原発デモ@渋谷・原宿

 少し疲れが残っていたので迷ったが、結局渋谷に出かけることにした。

 
 渋谷に着いたのが13:20頃。13:00出発予定とあったけれど、このあいだの日比谷公園発のデモはずいぶんと遅れたものだから、今回もそんなもんだろう、とタカをくくっていた。にぎやかな打楽器の音が聞こえてくる。もう出発かな、と思ったら、すでに始まっていた。あわてて高架下をくぐりぬけ、西武百貨店のあたりから合流する。

 
 後方についたつもりが、前半分の後というだけだったようで、振り返るとまたずらっと人がいた。前に渋谷でやった時とコースは多分ほぼ一緒なんだろう。が、あの時に比べると随分と人が多い気がする。


 「一緒に歩きましょう」「何もしないと変わりません!」といった、デモの外の人への呼びかけがずいぶんと多かった。ビラを配っている人もいたし、あえて歩道で「飛び入り歓迎」みたいな小さなプラカードを持って歩いている人もいた。運営の皆さんには毎度のことながら頭が下がる。

 
 デモの歩き始めの自分の思考は、この間でだいたい決まってきている。映像としては映画「モダン・タイムス」のデモシーンが思い浮かび、BGMはRCサクセションの「明日なき世界」。あとは歩きながら思い浮かんだことで脳内BGMが変わってくる。それは例えば中島みゆきさんの「吹雪」だったりする。不思議と「ファイト!」ではない。


 さて、今日は、泉谷しげるさんの「なぜこんな時代に」が再生された。一人フォークゲリラバージョンのもの。たぶん、何か考えていることとどっかでかかわっているのだろう。


 デモでの僕は相変わらず特に何を口にするでもなくプラカードを持つでもなく、ただ、歩いているだけだ。何かがこれで変わるだろうか? ただ歩いただけで「結果責任」を逃れようとしているだけではないのか?


 「何もしなければ賛成しているのと同じこと。だから声をあげましょう」といった呼びかけもあった。まったくもって正しい。恥ずかしながら僕自身、かつてそういうことを口にしたこともある。でも、本当にそうだろうか。


 運営している方々や地道に活動をされている皆さんを決して軽んずる意図はない、とお断りした上で。「何もしなければ」とか「声をあげなければ」と言う時、果たしてどのレベルの行動が想定されているのだろう、と考える。「デモに参加すること」「署名をすること」といったレベルは当然あるだろうけれど、もっと進んで「デモを運営すること」「署名を集めること」といったレベル、さらに進んで「何としてもやめさせる」といったレベルまでが想定される場合もあるかもしれない。


 だからどうなんだよ、と言われればそれまでだが、最近こうしたことが気にかかり始めている。「あんたはどないしますねん」(小田実)と問われたら、相も変わらず「一人でもそれはやれることなのか? と問うてみて、是と答えられることをまずはやろう」と答えるほかはないのだけれど。ふと、杉田俊介さんがどこかで書いていらした言葉のことが思い浮かぶ。帰ったら本棚をひっくりかえそう。


 歩いている最中、「10メーターでもいいので一緒に歩きましょう」といった呼びかけがあった。これはいい呼びかけだと思った。もちろん、10メーター歩くことだけで事が済むわけではない。その歩いた10メーターを、自分自身の日常にどう落とし込むのか、そここそが重要なんだろう。そうしたきっかけとして「10メーター」というのは実にいいな、と思ったのだった。


 実際、もとから予定していたのかどうかわからないけれど、途中から列に入ってくる人はちらほら見られた。車道と歩道の境界があいまいになるのは面白い。

 
 ゴール地点まで来て、打楽器の大演奏で一応のフィナーレとなる。その一方で、宣伝だかアピールだかも続いている。そこには合流せず、休憩がてらぼんやりと少し離れた歩道わきで集合してくる皆さんを眺める。主催者の方だろうか、「次は9/24に何かを予定しています」とアナウンスすると、僕の隣り合わせにいた数人のおじさんたちが一斉にメモをとって頭をつきあわせる。その筋の皆さんなんだろう。

 
 帰り際にはもう、ちょっとした身の回りの買い物と晩ご飯のことを考えていた。結局降らなかった雨のことを思い、やっぱり洗濯しておくんだったかな、と少し後悔した。で、あれこれ済ませた後にふと、そうだ、杉田さんの言葉を探すんだった、と思いだした。何事もなかったかのように日常に戻ってしまったので忘れるところだった。


 そうそう。どういったレベルの行動が想定されているのか、を考えようとした時になんとなく連想した個所を探すのだった。「国文学 解釈と鑑賞」2010年4月号に掲載された杉田俊介さんの「将来の労働/生存/文化運動を削る試金石――舫いとしての浅尾大輔『ブルーシート』」より。


 浅尾が多喜二やイエスの自己犠牲に自らを重ねる時、彼はむしろ、他者からかつてもらった贈与を返済しているだけのつもりかもしれない。だからそれに終りはないのかもしれない。だがやはり何かが違う。他人の苦しみに同調し、あの人たち以上に苦しまねば真の「左」ではない、という態度は、彼が闘う資本制の悪循環(苦痛のインフレ→死)をなぞるからだ。無節操なゆるしは他者を甘やかし増長させる、と言いたいのではない。他者を生かしながら殺す、と言いたい。しかもしれは無意識に周囲の人間へも贈与の感染を強いるのだ。この贈与の悪循環を断ち切らない限り、多喜二の亡霊を永久に祓えない。



 読み返すと必ずしも直接的な関係はないのだけれど、ヒントが隠れているような気だけはしている。悪循環をなぞる、というイメージ。ここに何かがありそうな気がする。
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by todoroki-tetsu | 2011-08-27 21:06 | Comments(0)

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