上原專祿『増補改訂版 世界史における現代のアジア』

 ずっと懸案であったことのひとつだった。上原專祿の『増補改訂版 世界史における現代のアジア』(「著作集」13巻、評論社)をtwitterで何とか読み終えた。ハッシュタグは #uehara_asia とした。


 前々から上原を一度はやってみようとは思っていた。でも畏れ多いような気もして敬遠していた。たいがい僕はねっ転がって本を読むことが多いのだが、上原の本だけはきちっと机に向かって読む。なぜだか自分でもわからない。


 いっとう最初にはじめたのは今年の1/15。どうやら当時の時事問題の何かに思うところがあったらしい。おぼえていない。たぶん、独立とは何か、みたいなことを考えていたような気がする。少しだけ進めて、長らく中断。ちゃんとやり直さなければ、と思ったのは中島岳志さんの『秋葉原事件』を読み進めていた時。自分の中で、何かの問題に接した時の態度なり方法論なりといったものを、鍛え直す必要があると感じたから。

 
 というわけで実際に読み進めていた最近では、もっぱら上原の方法論・認識論に重点を置いた読み方となった。典型的にそのあたりが現れたツイートを編集の上再掲する。

 「私たちは日本の全体を動かす力がないのであろうか」(P.237)と問いかける。世界や日本を動かしているのは超越的存在ではなく、人間ではないか、と上原は訴える。当然ここは上原が受けている日蓮の影響を無視できない。重要な部分。


 「世界の動きや日本の動きに自分だけが圏外に立って、偉い人がやってくれるだろうという気持ちであるならば、それは政治の実際の動き方を知らないことになる」(P.239)。卑下もせずうぬぼれもせず、「淡々とした人間の一人、日本人の一人」という意識が欲しい、と。


 「その意識に立つと、自分の生活や仕事に関心を持つのと、少なくとも同じ度合いで、日本の動きや世界の動きを問題にせざるを得ない気持ちになるであろう」(P.239)。そうは出来ていない自分のことはとりあえず棚に上げておくとして(忘れはしない)、ひとまず頷く。


「自分の生活というものは、家庭や職場を中心とする場合でも、いつでも世界や日本の問題が集約されたかたちでそこに問題になって来ているのであって、世界や日本の動きと関係のない自分だけの生活や仕事というものは絶対にあり得ない」(P.239)。全面的に賛成。


 「極端にいえば、自分の仕事や、自分の生活というものは、世界ならびに日本の問題の非常に具体的なかたまりなのだ」(P.239)。頭に叩き込んでおこう。ここで上田耕一郎ではなく、あえて浅尾大輔さんの言葉をメモ的に記しておきたい。「働く人の根は、家族や家庭にはなく、職場にあるのです」と今は閉じられたご自身のブログのコメント欄に浅尾さんは記しておられる。ずっと気になっている。上原の文脈とは少しずれようが、手放せない言葉。


 「世界と日本と自己を一緒につかみ、同時に認識し、統一的に生きていこうとすると、そこに生活の重量感といううものをだれでも感じるであろう。気楽に生きるためには、職場の全体、仕事の全体がどうなっていようと、自分に与えられた仕事をどうするかということだけを考えてほかのことは考えない方がよい。いわんや日本の社会の全体や人類の未来などについては一切考えない方がよい。ところで、こうした考え方だと、気楽に生きていくことは出来るが、一人の人間がそのような生き方をすると、その当人の分まで背負い込んで心配しなければならない別の個人が必要になってくる。(略)こういうことに気がつくと、重くてもやはり世界、日本のことを考えてみる必要が起こってくる。それは一種の道義的責任みたいな問題ではないかと思う」(P.240-1)

 この部分は難しい。世界と日本の問題の「具体的なかたまり」として自分の仕事や生活を認識するか、という問題と、誰がそれを担うのかという問題。確かに「道義」だろう。では、その「道義」が通用しない/させない場合ははたして? 難しい。だが、「荷物は好きでも嫌いでも存在する。これを一緒になってになっていける仕組と雰囲気と各個人の考え方が出て来れば、楽にやれる。同じ方向に皆が協力して担って行けば重くあっても快い」(P.241)というのは理解できる。


 「自分の仕事や自分の生活を考えるのと、最少限同じ度合で世界の動きと日本の動きについて考えてみると、両者の間には内的連関があるだけではなく、それ以上に同じ問題の両側面にほかならないものであり、同時に自分自身の問題であることがわかるのである」(P.241)


 
 「具体的なかたまり」として自分の仕事や生活を認識する。このことの重要性は判る。ここは全面的に賛成でもあり、実践すべく心がけたい。だが、それは「道義」だろうか? 話の通用する奴には通用するかもしれないが、通用しない奴には通用しないのではないのか? 

 
 日蓮か親鸞か? とどっちもよく知らないくせに、そんな思いを抱きながら読み進めていたのでもあった。自ら悟りを啓かんがごとく己自身と日本と世界を統一的に把握しようとする試みを、まっとうに検証するにはその対極の親鸞をぶつけて考えてみるしかないのではないか、と。今到底出来ることではないし、見当違いかもしれないが、じっくりと考えてみたい。

 
 さて、「具体的なかたまり」として自分の仕事や生活を認識するというのは、はたしてどういうことか。「具体的なかたまり」はまさに具体的なのであって、そこからは多種多様なものを引き出すことが出来るだろう。上原はそこに世界史認識と、主体性とでもいうべきものを常に打ち込んでいる。その両者なくしては上原のような認識は成り立ち得まい。そこをもっと突き詰めたいという気持ちと、方法論を借りてもう少し別のアプローチができないものか、という思いとが錯綜する。上原の他の著作もこのように進めていきたいと思うものの、社会科学のモロの古典にまでさかのぼろうと考えてもいる。そろそろ助走に取り掛かる。


 方法論にばかりこだわっているが、実際そうでもあり、またそこに逃げているのだという気もしている。お前は何をやるつもりなのだ? という問いに具体的に応えていかねばならないのだろう。
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by todoroki-tetsu | 2011-07-02 22:28 | 業界 | Comments(0)

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