身体感覚を重ねあわせられていない

 適度に離れている人間に対してはいろんなきれいごとが言える。現に、言った。


 では、自分の身の回りに対してはどうか。具体的には、職場の契約スタッフとの関係性である。


 自分の担当する部署の契約スタッフはこの間の震災の混乱の中、最大限に力を発揮してくれた。そのことには感謝するよりほかないし、なるべくそうしたことが「上」に伝わるようにも努めてはいるつもりだ。願わくば、「ノーワク・ノーペイ」の通達なんざしゃらくさい、と会社が言いだすことを夢見て。が、今そこはどうでもいい。


 「上」に伝える時、契約スタッフが「いかに忠誠心にあふれているか」というような物言いをした。「会社」に「受け」がいいように、多分大して意図せずに。ということはそういうように受け止めたのだろう、僕は。実際そう思わせるような言動は彼らの中に確かにあったのは事実でもある。


 交通機関の混乱もやや収まったころ、仕事の合間にバカ話とも世間話ともつかない話をする時間が少しあった。「震災の直後は本当によくやってもらった、ありがとう」というような話をした。その時、あるスタッフから「いや、働かせてもらえないと実入りがないですから」と返された。


 彼の口調はごく普通のトーンであった。ひょっとすると少しばかりの照れ隠しもあったのかもしれないが、それは大した慰めにはならない。僕は恥入るしかなかった。

 
 結局のところ、何も分かってはいないのだ、自分は。所詮は「正社員」ということか? そうだろう。なんだ手前は何にも分かっちゃあいねぇんだな、と言われてもぐうの音も出ない。分かる/分からないというと頭で考えることをイメージしがちだが、ここ数日の感触では、どうも身体感覚を重ねあわせられていない、そんな気がしている。


 はたして身体感覚を重ねあわせられるのかどうかも分からないが、まず、「自分は一緒に働いている契約スタッフの感覚を共有できていない」ということを、受け止めなければいけない。


 そこから一歩先を踏み出そうと思うのだが、とたんに暗闇に取り囲まれるような気がしてならない。が、手探りでもやってみるしかないのだろう。


 問いを生きる、というのはこういうことなのだろうか。
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by todoroki-tetsu | 2011-03-30 22:15 | Comments(0)

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