渡辺一夫「エラスミスムについて」その二


 また一体チェリー・モーニエがルッターによって守られたと言う「精神の真の特権」とは何であろうか? 動脈硬化に陥った当時のカトリック教会とその神学者とに対する批判と粛正要求とは、旧教側の攻勢にもかかわらず、ルッターによってなされ続けたのであり、チェリー・モーニエは、一九三五年頃擡頭するナチスムやファッシスムの攻勢に対しての批判と人間性合理性の擁護とに、ルッターを結びつけて考えいたのであろう。しかし、「精神の真の特権」とは、ルッターの専売ではない。それのみか、同じ神の名によって殺戮し合い、同じ正義の名の下で果たし合いをする人間に対して、この殺戮もこの果たし合いも愚劣であり非人間的であり、それの解決は他に求めねばならぬと説くこと、またそうした考えを抱き通すことこそ、正に「精神の真の特権」とは言えないだろうか?




 引き続きちくま日本文学全集版「渡辺一夫」より。P.83-4から抜いた。「それのみか」以降の一文は、静かだが、みなぎる思いを感じさせる。


 エラスムスの全てが肯定しきれるわけではない。その例として昔の弟子、フッテンを見捨てたことを挙げる。だが……


  フッテンを拒否した日は、正にエラスムスの生涯中最も暗い日だったのだ。彼の行為は明らかに「福音」の慈悲の教えに背くものと言える。これには、何とも抗弁のしようがない。救いを求める重病の、不幸な、昔の弟子を見殺しにしたのである。たとえフッテンがいかに軽挙妄動する人間であるとしても、エラスムスは、「福音」を守ろうとして「福音」に背いてしまい、人間的たらんとして非人間になるのである。エラスムスも脆弱な人間である。追いつめられて犯したこの種の非人間的行為は、重大なウォルムスやアウグスブルクの会議への欠席と同様に咎められてもいたし方ない。しかし、人間エラスムスが、利己的な平安しか求めないと批判されるのを覚悟の上で、追いつめられて肉体になおも宿し続けたものはあったのである。我々は、それをも咎めるわけにはゆくまい。我々は、エラスムスを咎めることで物足りなかったら、エラスムスにこの醜態を強いた現実をも咎めなければならないのである。



 P.87-8より。今、何を咎めるべきであるのか、見極めなければならない。そう恣意的に読む。


 エラスミスムが黙々として持続した勝利を収められなくなった時に、エラスミスムは無力となり、これを肉体に宿した人々は追いつめられるのであり、その結果、狂信と暴力とが荒れ狂うのである。エラスミスムは、一人でも多くの人々によって護り続けられねばならぬものであり、しかも、争闘の武器ではない。ユマニスムの徒が追いつめられて銃を取ることは、ユマニストの王者エラスムスが非人情的な醜態を犯すこととは異質の悲劇である。こういう悲劇を回避するために努力するのも、ユマニスムの使命であり、エラスミスムの目的であろう。一九三五年に、チェリー・モーニエが、エラスムスのユマニスムを非難した時、既に大きな悲劇は始まっていたのである。


 
 P.89。「既に大きな悲劇は始まっていた」……この言葉を同時代的に恣意的に読んでみる。その言葉を、自分の中に打ち込んでみようとする。


 この随筆のしめくくりに近い部分で、渡辺はモンテーニュの言葉を引いている。孫引きだが、最後に引く。いずれも『エセー』の「三ノ一〇」とある(P.91)。


 「現在この国の混乱渦中にあって、いくら私に利害関係があるからと言っても、私の敵に具っている美質を認めないわけにはゆかなかったし、私の与する人々のうちに咎むべき欠点を認めないわけにもゆかなかった」



 「我々の信念や判断が真理に仕えずに、我々の欲望の企図するところに仕えるようにせよと人々は望む。むしろ自分の欲望とは全く反対な逆な極端に走って間違いを犯すかもしれない。それほどに私は、自分の欲望に駆使されるのが恐ろしい。更にまた、自分が願い求めることを、私はやや敏感に警戒するのだ」



 1948年に記されたこの文章が切実さを増すことを、今は哀しまないでおこう。とにかく、これだけの到達が60年前にはあったのだということ、少なくともここから始めることは出来そうだ、ということに希望をもつことにしよう。


 問題は、この希望を自分の「肉体」に果たして宿せるか、になってくる。大澤信亮さんの言葉が手掛かりになるに違いない。これは別の機会に記す。
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by todoroki-tetsu | 2011-03-24 06:32 | 文学系 | Comments(0)

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