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渡辺一夫「ラブレー管見」

 「正気」を保つための作業として。ひきつづきちくま日本文学全集(文庫サイズ)のもので。


 「ラブレー管見」と題する、講演草稿。1953年である。P.54からまず。


 好き嫌いは別として、文化史に名を残している人々に対して、我々が負うところのものは当然たくさんあるわけです。仮に現在の我々が幸福であり利便に恵まれた生活を送っているとするならば、こうした幸福や利便を作り出してくれた人々が永年にわたり苦心し、ある時には途上で倒れたり、迫害されたり、刑死したりしたことも忘れてはならぬのです。


 
 時代をさかのぼって思いをはせようとするならば、同時代にも目を向けなければ嘘だ。同時代に思いをはせるのであれば、時代をさかのぼることもしなければまやかしだ。そんなふうに諭されているような気がしてならない。

 
 続いて、P.58。


 
 我々人間が自分で作ったものの奴隷になり、人間を見失い、人間を忘れかけている時、弱くて滑稽で危険な動物であることを思い出させてくれるための方法として、また妙な歪み方をしている我々に「気をつけよ」と警戒信号を出してくれるものの一つとして、今申しましたような、下品らしく見えて決して下品でないラブレーの笑いの一面があるのです。



 かつて赤木智弘さんが伊集院光さんについて記したエセーをきっかけに考えてみたことがあったことを思い出す。


 
 皆が、自分及び他人の歪みを笑えるだけの心のゆとりと、反省とがありましたら、世のなかは決して一挙にして改良はされますまいが、改良される方向を見いだせるのではないかと思っています。附言しますが、相手を笑うということは、相手を傷附けることではありません。我々の社会を正しく、明るくするために相手に反省を求めることですし、相手を笑い、相手に反省を求める以上、自分自身にも相当の覚悟はあらねばなりません。



 これはP.59。「自分自身にも相当の覚悟」(!)。ここにきて問いが自分自身に還ってくる。

by todoroki-tetsu | 2011-03-21 19:39 | 文学系

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