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渡辺一夫「びいどろ学士」「ユマニストのいやしさ」

 「正しさ」と「正しさ」がぶつかり合う時、いったい何が起きるのだろう。何を基準にすればいいのだろう。高島善哉はマルクス=ヴェーバー問題に際し、「射程の広さ」(「長さ」か「深さ」だったかもしれない)を基準にしたと記憶する。ブルカニロ博士を想起してもよいのかもしれない。

 
 さて、引き続いて渡辺一夫である。

 
  
 社会は狂人の言葉に対しては寛大だが、健康人の憂世の言葉はまま痛すぎることがあるから拒否する。実に無欲恬淡なものだな。我が日本国民だってそうなのだよ。いや、特にそうかもしれない。優れた人々が戯作者や半狂人にならねばならないということは、悲しい証拠かもしれないね。



 「びいどろ学士」の一節であった(ちくま日本文学全集版、P.17)。これは1944年6月につづられている。

 
 今、だれが狂人なのか。正気とはいったい何なのだろうか。


 次は、「ユマニストのいやしさ」から。1942年8月に記された文章である。長く引くが、ご容赦願いたい。上記と同じちくま日本文学全集版のP.48-50。


 
 もちろん、この際にパスカルの賭にも似た問題が考えられる。すなわち、何物かを生かすために果たして≪いやしさ≫を甘受すべきであろうか、生かさるべき何物とはなんだろう? 恥を忍んでまで生かさるべき何物かがほんとうにあるのであるか? そして、結局人間は虚無に帰する以上何もそう賢げに振舞い、悲愴な精神的政治家めいた覚悟を立てる必要はないのではあるまいか、とも考えられる。しかし、それとも生かすべきものがほんとうに生き、そして受けつがれるに違いないのではあるまいか? いずれを信ずべきだろう? (中略)
微風の一吹き、蟻一匹のために、個人の心境は容易に変り得る以上、また人間は、いかなる口実でも現実の保全のためには製造できる聡明さを持っている以上、更にまた人間は、焼場の鉄扉の後に肉親を納めた時でも、己の消失死滅の必然を、まだ(幸いにも)真実とは思えぬ無神経さと、事ごとに死を恐怖する過敏さとを奇妙な度合に混淆せしめて、しかも幸福を求めながら生きて行く以上、この≪賭≫も(パスカルの賭と同じく)恐らく現実に意気揚々と生きている人間の心にはかすかな波紋しか立て得ない性質のものかもしれない。考えたところで一文の得にもならず、国策を翼賛するのに役に立つものでもない。しかし、一応は考えられてしかるべきであり、その解決の志は、配給の芋を賞(め)でながらも、心ある人の胸には宿っておらねばならぬものだ。そう信じたい

 ジョルジュ・デュアメルとミゲル・デ・ウナムーノとが絶賛してやまないセナンクゥールの言葉に、「人間は滅び得るものだ。そうかもしれない。しかし、抵抗しながら滅びようではないか? そして、もし虚無が我々のために保留されてあるとしても、それが正しいというようなことにはならないようにしよう」とある。僕は、この言葉を時々思い出す。そして、冷たい、しかも劇(はげ)しい情熱をすら感ずる。



 「何かのために」と思うことの非情さと甘美さをかみしめながら、これを読み、記すお前は何なんだと問いながら、問うているうちは正気が保てるなどと甘い考えを徹底的に排除していこう。





 
 

by todoroki-tetsu | 2011-03-17 21:02 | 文学系

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