初めて触れる時のこと――大澤信亮「復活の批評」

 支離滅裂になるのは分かっている。しかし、今記さなければならない。勢いに駆られている。他人様に読んでもらえるようなシロモノにはならないだろう。申し訳ない。


 今日2/9は、「殺人等 平成20年合(わ)第491号」という記号が割り当てられた事件の、ほとんど大詰めといえる日である。抽選券が配布される1時間ほど前から並んだ。昨日買い求めた「文學界」の頁を開いたのはこの時だ。

 
 今までにも数回、この事件の傍聴をしたことがある。極めて具体的な他者に問いを突き付けられてからのことであるから、主体的といえるのかどうかは分からない。以来、「なぜ自分はここに並んでいるのだろう?」「なぜ傍聴席に坐っているのだろう?」「何を自分はメモしているのだろう?」「何が自分は知りたいのだろう?」……「見る者が見られる」「読む者が読まれる」、そんな感覚が常に付きまとっていた。


 大澤信亮さんの「復活の批評」には、そんな感覚について触れている部分がある。「自己を問うこと」が大澤さんの批評の根幹――小林秀雄の根幹、と言い換えてよいのかどうかは僕にはまだ分からない――と思われる以上、そうした「折り返し」は当然不可欠のことではあるだろう。しかし、「なぜ自分はここに来たんだろう?」「なぜ自分は抽選券を待って並んでいるんだろう?」、そう思いながら頁をめくることは自分にとって何か格別の重みがあるように思われた。


 しかし、そのような「読み方」など構いやしない、というほどに筆は進んでいく。決して短くはないが、かといって大長編というほどでもないこの批評文を、僕は1時間では読み終えることが出来なかった。文章の濃密さ、その突き刺さる鋭さに、思わず頁から目をそらし、嘆息し、息を整え再度頁を開く……そんなことを幾度となく繰り返したからだ。


 終盤にさしかかるところで、抽選結果が出た。初めて、外れた(「確率の手触り」!)。残念だ、と少し思ったのが自分でもよくわからない。結局のところ野次馬根性に過ぎなかっただけかもしれない。そんな自分が見透かされるのが嫌だから、なるべく顔を見上げないようにしていたのだが。


 帰りの地下鉄では再度頁を開く気になれず、結局行きつけの珈琲豆屋さんで焙煎されるのをまっている間に読了した。


 今法廷で何かが継続しているのか、もうすでに何かが終わったのか、僕は今、知らないでいる。この夕方から明朝にかけ、何かが色々と報じられるだろう。この事件の「報道」、あるいは文学者や研究者が記すであろうこの事件への言葉。それらに触れる度、僕は寒空の中突き抜けたような光が時折差し込む東京地裁前の生け垣の脇で、濃密さのあまり時々頁から目をそらしながら嘆息し、時として絶叫せんとする自分の口を押さえながら初読したこの「復活の批評」を、思いだすことだろう。

 
 その時、「明日の必要」とは自分にとっては一体何であるか、何度でも問い直すことになるであろうことを、予感する。
[PR]

by todoroki-tetsu | 2011-02-09 15:12 | 批評系 | Comments(0)

<< 理屈では分かっている 大岡昇平の『事件』を読み始める >>