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大岡昇平の『事件』を読み始める

 数日前、大岡昇平さんの『事件』(新潮文庫)に着手した。何のことはない、遅ればせながらようやく浅尾大輔さんの批評「働く人間の物語――暴力を どう阻止する」(「東京」夕刊2011年1/5)を読み、興味を持ったというだけに過ぎない。

 
 文庫本にして600頁弱の大作であり、まだまだ半分にも到達していない。が、気にかかる個所はいくらもある。その中で今朝の通勤中に読んでいて身につまされた部分がある。


 刑場に集まる群衆には、心の中に潜む残虐性をひそかに満足させるという動機がないとは言い切れない。(略)

 刑が公開されなくなった今日、公判は犯罪者が公衆の面前に現れる唯一の機会である。従って裁判所にも傍聴マニアというものがいる(略)。

 ここには、「追及」欲と共に、「処罰」欲も含まれている。判決言い渡しの瞬間が、「堪らない」というマニアもいる。被告の無罪を主張する文化人などが、投書を受け取るのは、主としてこういう人達からである。

 刑がこわくて罪を犯すのを我慢している人間が、それを犯した者を憎むという心理がある。一方、自分で犯す危険を感じている犯罪には、無罪や寛大な刑を要求する心理がある。あるいは近親者や友人に、同じような罪を犯したものがあって、それらの経験にからむ心的状態から無罪を望む場合がある。

 裁判批判はいくらやっても差しつかえない。(略)ただそれを行う文化人も投書家も、まずなぜ自分がその事件について、意見を発表したくなるのか、ということを、自分の心に聞いてみる必要があるかもしれない。                           (P.111-12)



 「見る者が見られる」という感覚があるということ。「読む者が読まれる」という手ごたえがあるということ。それらを踏まえた上で、「自分の心に聞いて」みて、それから開ける地平というのは果たしてあるのだろうか? それは「地獄行き」(!)なのか、それとも……。


 もとよりテレビは見ない人間だ。夕刊も怖くてまだ手にしていない。ちらちらとネット上でのニュースを断片的に目にしただけだ。

 
 さあ、どうする?

by todoroki-tetsu | 2011-01-25 23:13 | 文学系

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