無題

 浅尾大輔さんの評論、「かつて、ぶどう園で起きたこと――等価交換としての文学(ファンタジー)」(「モンキービジネス」VOL.10)をこの間断続的に、しかし何度か読み返していて、初読時などには少し記したこともあったのだが、いざ向き合おうとするととたんに言葉に詰まる。


 「4 作品分析――副詞『あらかじめ』の恐怖」は、「流通過程」(『資本論』が意識される)における労働と暴力にさらされる「ロスジェネ文学」における主人公の姿を、「あらかじめ」という副詞に託して追っていく。


 このセクションの前置きで浅尾さんはこう述べる。


 「彼ら(「ロスジェネ文学」の主人公たち)は、流通過程でふたたび過酷な労働と暴力に出会う。彼らは、それを逆らえない必然として一身に引き受けている。そうして密かに傷つき、悲しみに暮れて、ひとり声を殺して泣いているのだ」(P.285)


 
 「資本論幻想」と浅尾さんがよぶ、「剰余価値G´の『山分け』、すなわち平等な分配があり得る」というファンタジーに比べ、「ロスジェネ文学」は深いリアリズムを有している、そうした記述を引き継いでの言葉である。


 「密かに傷つき、悲しみに暮れて、ひとり声を殺して泣いている」というのは、一体誰のことだろうか。いや、そう言える資格のあるのは一体誰だろうか。


 「労働力の再生産過程から排除された者」(P.304)は確かにそう言える資格があるだろう。自ら言うか言わないかは別として。非正規雇用の労働者もまたそう言えるだろう。では、正社員はどうだろう。確かに16時間/日とか、それ以上の時間働かされたり、入社1年程度ですぐ店長にさせられて責任ばかり負わされるとか、そうした正社員は「ひとり声を殺して泣いている」と言えるだろう。繰り返すが、自ら言うか言わないかは別である。


 そこまでではない、という正社員もいるだろうと思うのだ。というより、自分がそうだ。最大働いてもだいたい14時間/日程度だし、持ち帰りの仕事も休日出勤もあるが、しかし、一応は週休二日である。学校歴コンプレックスを感じない程度の学校を出て、35歳、手取りで残業代こみ25万前後/月は、一人でやっていくには不自由しない。


 たぶん、こういう輩が一番性質が悪いのではないかと思うのだ。そして、何かを記すことで免罪符を得たようになる自分が、あさましいと思うのだ。しかし、その「性質の悪さ」や「あさましさ」の正体はいったい何なのか、それを解剖したいという気持ちもあって、結局のところわけがわからなくなって。


 あさましさついでにヴェイユを持ち出したりなんぞもしてみる。


 工場から多くの悪が来た、そしてこの悪を工場の中で改めなければならない。それは困難ではあるがおそらく不可能ではない。まず技術者その他専門家たちが、物を造ることだけでなく人間を破壊しないことを十分に望むことが必要であろう。人間を従順なものにするのでもなく、幸福にするのでさえもなく、ただ単にかれらの中の誰にも品位を下げるよう強制しないことである

    ――シモーヌ・ヴェイユ「工場生活の経験」(『労働と人生についての省察』、p.253)



 「品位を下げるよう強制しないこと」なら出来るかもしれない、などと甘い考えは持つな、と自分を戒める。


 自分の労働と生活に向き合うのは、難しい……。
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by todoroki-tetsu | 2010-11-15 23:37 | 批評系 | Comments(0)

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