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「自分だけはけっして疑わない自己絶対化」

 大澤信亮さんの『神的批評』を読み進めている。


 そのうち、「柄谷行人論」において、初出時との異同に気がついた。もちろん、単行本の差異の加筆修正はよくあることだろうし、元来そうしたところに気付く性格では僕はない。


 しかし、「おっ」と思ったのだった、ここだけは。具体的に挙げてみる。「新潮」2008年11月号のP.264と、『神的批評』のp.72である。柄谷さんが「強い視差」を強調していることについてのべた一連のパラグラフ。


 だがさらに踏み込もう。かりに「強い視差」が生じても、それが自己を含めた関係全体への問いに至らず、単に一過的な不快としてやり過ごされる場合もある。(中略)対象化した自己の記述に夢中になり、それを行う「私」への問いが消える光景もありふれている。戦後の吉本隆明がそうであったように、単に「すべてを疑う」という決意――と言いつつ疑っている自分だけはけっして疑わない自己絶対化――に行き着くこともある。ならば(以下略)
                                    「新潮」2008年11月号P.264



 だがさらに踏み込もう。かりに「強い視差」が生じても、それが自己を含めた関係全体への問いに至らず、単に一過的な不快としてやり過ごされる場合もある。(中略)対象化した自己の記述に夢中になり、それを行う「私」への問いが消える光景もありふれている。単に「すべてを疑う」という決意――と言いつつ疑っている自分だけはけっして疑わない自己絶対化――に行き着くこともある。ならば(以下略)
                                             『神的批評』p.72



 異同はただひとつ、「戦後の吉本隆明がそうであったように」という一文の有無である。

  
 単行本でこの部分が削除されたのはどういうことだろうか? この挑戦的な単行本において、何らかの「遠慮」が働いているとは思われない。ここには著者の認識の変化があるのではないかと思う。


 この一文にこだわるのは、僕が吉本さんを理解する上での大いに手がかりにしからだ。つまり、吉本隆明という人を「単に『すべてを疑う』という決意――と言いつつ疑っている自分だけはけっして疑わない自己絶対化に行き着」いた人として見ることで、一見難解な言葉を理解することが出来るように思われたからだ。あ、この人は思想家というよりは徹頭徹尾詩人なのだな、とは『詩とは何か』を読んで抱いた感想だったが、詩人であることが彼の思想をどのように規定しているのかは分からなかった。「関係の絶対性」を鋭く突いた「マチウ書試論」は好きな著作のひとつだが、「では、自分はどうすればいいんだろう」と思った時、「あんたほどには強くはなれねぇよ」という気持ちもあったのだった。


 「自分だけはけっして疑わない自己絶対化」という表現を、そうしたもやもや感を一挙に吹き飛ばしてくれるものとして僕は受け止めた。この言葉によって吉本さんの言葉も相対化出来る気がした。もちろん、その相対化というのはけなすような意味でもなく軽んじるということでもなく、変に有り難がるんではなくまっとうに受け止めてみるために必要な過程というほどのことである。事実、吉本さんを好きか嫌いかと言われれば何とも言えないが、「すげぇな」とは思う。何か大それたことをやろうというんじゃなしに、普通に働いてメシを食って寝て遊んで、それでいて世の中のことを偉い人に騙されない程度に理解して生きていく、という意味では必要にして十分だと思う。これはすごいことだ。「立って半畳寝て一畳」の思想である。


 さて、ではなぜこの一文が単行本では削られたのか、ということだ。全体の行論には大きな影響はないとも思われるので、さしてこだわる必要はないのかもしれない。が、突っ込んでもみたい。「戦後の吉本隆明」は「自分だけはけっして疑わない自己絶対化」をしていなかったと認識が変化したのか、あるいは、「自分だけはけっして疑わない自己絶対化」は何も吉本さんに限った話ではない、と考えられたのか、そのいずれかではないかと愚考するのだが、どうだろう?


 細かいところにこだわる性格ではないのに、こうやってどうにも疑問が沸き起こる。異議、という意味での疑問ではなく、自分の中に折り返していくような、そういう意味での。町田康さんが指摘するごとく、まさに「困ったことである」。

by todoroki-tetsu | 2010-11-08 00:04 | 批評系

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