「問いを生きることはできるか」

 「問いを生きることはできるか」……大澤信亮さんの『神的批評』の帯にある惹句。担当編集さんが記したもの、とブログで知ったのだが、秀逸だと思う。


 問いに応じるというのはどういうことか、というところから始める。


 そもそも問いとは何か、を考えなければならないのだろうが、ここでは「その人にとって大切な問題」というほどの意味にとらえておこう。この「大切」の度合いはその人自身によって、また状況次第で変わるものとして考える。考え抜いている大切さもあれば、なんとなくの大切さもある。言い換えれば、深刻な大切さとそうでない大切さ。どちらも含めたものとしておく。

 
 問いを他者に対して発する時の意図は何か。具体的な「答え」を求めている場合もあれば、ただ聞いてほしいというだけのこともある。発した時に相手はどう反応するか。これは一種の賭けである。望む反応が返ってくるか来ないか、それは発してみなければ分からない。そもそも何を望んでいたのか、それすら分からない時がある。


 その時、問いを受け取る側はどうするか。自分にもなじみのある問いであったりすれば、自分なりの見解をもってある種の「答え」を用意することが出来るかもしれない。ただ耳を傾けるだけでよければ、それも出来ないことではない(どちらも難しいことだが)。無視も選択のひとつだ。「怒り」もありうる。ここでいう怒りは、問いを発した側とともに自分ではない第三者なり媒介(社会、政治、会社……)への怒りを共有することではなく、他ならぬ問いを発した他者その人自身に対する怒りである。「そんなこと言われたって分からねぇよ」が「なんでそんなことを俺に言うんだ」になり、「俺に向かってそんなことを言うお前が悪い」へ帰着する。「わたしを怒らせたのはキサマだッ! キサマが悪いんだ!」(ヴァニラ・アイスの言葉より。『ジョジョの奇妙な冒険』文庫版16巻、P.155)というわけだ。


 しかし、いずれにせよ、他者の問いに触れた時にはもはや受動的ではありえない。どのような行動も言動も、やはり賭けである。目の前の他者が望むような反応が出来ないことを僕は怖れる。相手がいけすかない奴ならまだしも、少なくとも敵ではないと思っている人から発せられた問いを前にすると、混乱する。どんな態度が正解かと焦るあまり、うまく応答できない自分にハラをたてる。結果として傷つけてはいけない人を傷つけてしまう。だから僕に問いを発するな、と言いたくなる。ヴァニラ・アイスのごとくキレるしかなくなりそうで怖いから。悪循環。


 その人にとって大切な問いで世の中は満ち溢れている。出来あいの言葉で言うなら、貧困であったり住居であったりジェンダーであったり障害であったりメンヘルであったり労働であったり戦争であったり原発であったり環境であったり基地であったり教育であったり……。「政治を変えれば」「社会を変えれば」という言葉に打ち込んで賭けてみることは決して無駄ではない、全てを一挙に解決することなどあり得ないという冷徹な認識さえ忘れていなければ。


 しかし。「政治」や「社会」といった言葉で、他者の問いを自分に分かりよいように置き換えているだけだったとしたら、それは問いへの応答とはいえぬ。他者の問いをそのものとして共有する、というイメージはありうる。けれど、じゃあいったい何人の人と問いを共有すればよいのだろう? と思うと呆然とする。


 結局のところ、自分は自分の問いを生きることしか出来ないのではないか。他者の問いを生きることは出来ない、と観念するところから始めるしかないのではないか。開き直りでも傲慢でもなく、自らの問いを「生きる」中で他者との関係を見つめ直し、結び直そうとすること。



 自らを問わせるものだけが「他者」なのだ。
 困難は目の前にいる他者との出会い直しにこそある。
 私たちの自己意識は、つねに、すでに、あまりに洗練されすぎており、その瞬間に訪れる心の慄きを、怖れとしてしか受け取ることができない。にもかかわらず、私たちの生が開かれ、生き直されるのも、そのような他者との出会いにおいてしかあり得ない

       大澤信亮「批評と殺生」、『神的批評』P.198。下線は本文では傍点




 この言葉を、身体感覚として理解したといえる日が、いつか来ることを目指す。


 
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by todoroki-tetsu | 2010-10-29 11:32 | 批評系 | Comments(0)

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