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『精神現象学』を拾い読む

 『精神現象学』を久々に手に取ったのは、『ジョジョの奇妙な冒険 ストーンオーシャン』を読了した先月のこと。杉田俊介さんが「第六部(=『ストーンオーシャン』)の構成は『精神現象学』に奇妙に酷似する」と、()付きで触れている文章に気付いたからである(『無能力批評』p.95)。


 といっても再度通読が出来ているわけではない。文字通り「パラパラ」とめくっているだけである。陣野俊史さんが提起するところの、『俺俺』の第六章をどう読むかという課題(「すばる」2010年9月号、「『その後』の戦争小説論」⑮)の手がかりになるかもしれないし、あるいはこれまた「ジョジョ」の『スティール・ボール・ラン』に登場するスタンド、「D4C」(「Dirty Deeds Done Dirt Cheap」=「いともたやすく行われるえげつない行為」)についてのイメージを膨らませることもできそうだ。批評家の仕事を待とう。いや、すでにあるのかもしれないが。


 さて、当面の自分の問題意識にそって、エゴイスティックに引く。作品社の長谷川訳、p.207-209。C.(AA)理性、Ⅴ.理性の確信と真理、A.観察する理性のb.「純粋な状態にある自己意識の観察、および、外界と関係する自己意識の観察」。


 
法則の内容をなす要素として、一方に、個人そのものが位置し、他方に、その一般的な環境――置かれた境遇、場所柄、習慣、道徳、宗教、等々――がくる。そうした一般的環境を出発点として特定の個人がとらえられる。環境には特定の内容も一般的な内容もふくまれ、それが目の前にあって観察の対象ともなるし、他方また、個人の形式のうちにも表現される。
 
 さて、この両面の関係の法則は、そこにある特定の状況が個人に一定の作用と影響を及ぼす、という面をふくまざるをえない。が、個人というものは、一方で、共同体の一員として既成の共同体や道徳や習慣にすんなりと一体化し、共同体に合わせて生きる存在であるとともに、共同体と対立し、道徳や習慣をひっくりかえそうとしたり、個々の場面でそれをまったく無視し、それを受けいれもしなければ、それに働きかけもしないという選択も可能な存在である。したがって、なにが個人に影響をあたえ、それがどんな影響をあたえるかは――二つは結局同じことだが――もっぱら個人の生きかたによってきまってくる。この個人がこういう影響のもとにこういう人間になった、ということは、個人がもともとそういう人間であった、ということである。一方では目の前にあるものとして、他方では特定の個人のうちにあるものとして示される状況、場所柄、道徳、等々は、個人のどうでもよいありようをあいまいに表現するものにすぎない。この状況、この思考法、道徳、時代状況がなかったならば、むろん個人がいまある個人になることはなかっただろう。この時代状況のなかではこの共同体生活が唯一可能な生きかたなのだから。が、時代状況が個人のうちに特殊化されるとき――そしてそのありさまこそがとらえられるべきだが――時代状況はあますところなく特殊化され、そのように特殊化されたものとして個人に働きかけねばならないはずである。そうなってはじめて、時代状況は明確な輪郭をもつ個人の状況になったといえるのだ。外界が、個人のもとにあらわれるそのままのすがたで客観的にも存在するとすれば、個人を外界から理解することもできる。そのとき、わたしたちの前には二重の画廊があって、その一方は他方の反映とされる。一方は、完全に内容と輪郭の定まった外的環境という画廊である、他方はそれが意識のある存在のうちへと投影されてできた画廊である。前者は球面をなし、後者はそれを一点に浮かびあがらせる中心である。

 しかし、球面をなす個人の世界は、そのまま二重の意味を――それ自体で存在する世界であるとともに、個人にとっての境遇(世界)であるという二重の意味を――もっている。そして、それ自体である世界が個人の世界となるには、個人がその世界と一体化し、それをあるがままに受けいれ、それとの対立を形式的なものにとどめるか、さもなければ、既成の世界をひっくりかえすことによって個人の世界にするか、そのいずれかでなければならない。個人がそうした自由をもつゆえに現実が二重の現実としてあらわれる以上、個人の世界は個人からしかとらえられず、それ自体で存在するとされる現実の、個人にたいする影響も、個人が自分に流れこむ現実の流れを容認するか、流れを断ちきってひっくりかえすかによって、まさしく正反対の意味をもってくる。が、そうなると、「心理的必然性」などというのはまったく空虚なことばになってしまうので、しかじかの影響力をもつとされるものについて、そんな影響力などまったくもたない可能性も十二分に考えられる。



 ここからさかのぼって「自己意識」にいくか、「精神」まで突き進むか。ちょっと立ち止まって考えるとして、先に吉本さんを引いた文脈に、わりあい近いところがまずは手がかりになると思った。「外的環境」とか「時代状況」とここで言われていることは、「マチウ書試論」における「秩序」とシンクロする。


 さらにシンクロするのは、浅尾大輔さんの評論「かつて、ぶどう園で起きたこと」なのだが、そのことについては以前サワリだけふれたことがあるので今は措く。


 相対的な存在に過ぎぬ他者――自分も含めていいのかは感覚としては迷うが、理論的には含めなければならんのだろう――が絶対性を獲得するというのはどういうことか。「時代状況が個人のうちに特殊化されるとき」だと考えてみるのは、相当にグッとくる。が、ただ偉い人の言葉をつないだだけで満足してはお話にならない。もう少し練ってみる。

 

by todoroki-tetsu | 2010-09-07 09:50 | 批評系

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