相対的と絶対的

 一昨日に引き続き、自分の勉強のために『マチウ書試論』をひく。文芸文庫版、P.137-139。

 「偽善な律法学者とパリサイ人にわざわいあれ。なんとなれば諸君は、予言者の墓を建て、正義の人の墓碑を飾りそして言う。もし、われわれが父祖のときに生きていたら、予言者の血を流すために、かれらには加担しはしなかったろうと。諸君は無意識のうちに、自分が予言者を殺したものの子孫であることを立証している。それゆえ、諸君の父祖たちの尺度を捕え。蛇よ、まむしの血族よ。諸君はどうしてゲアンの懲罰を逃れられようか。」

 すべての悲惨と、不合理な立法と支配の味方である現代のキリスト教は、当然この言葉をうけとらなければならない。加担の因果は、秩序というものを支点としてめぐるのである。加担の意味が現実の関係のなかで、社会倫理的にとらえられなければならないのはこのときである。ここで、マチウ書が提出していることから、強いて現代的な意味を描き出してみると、加担というものは、人間の意志にかかわりなく、人間と人間との関係がそれを強いるものであるということだ。人間の意志はなるほど、撰択する自由をもっている。撰択のなかに、自由の意識がよみがえるのを感ずることができる。だが、この自由な撰択にかけられた人間の意志も、人間と人間との関係が強いる絶対性のまえでは、相対的なものにすぎない。律法学者や、パリサイ派が、もしわれわれが父祖のときに生きていたら予言者の血を流すために、かれらに加担しはしなかったろうと、言うときそれはかれらの自由な撰択の正しさを主張しているのだ。

 だが、人間と人間との関係が強いる絶対的な情況のなかにあってマチウの作者は、「それなのに諸君は予言者であるわたしを迫害しているではないか。」と主張しているのである。これは、意志による人間の自由な撰択というものを、絶対的なものであるかのように誤認している律法学者やパリサイ派には通じない。関係を意識しない思想など幻にすぎないのである。それゆえ、パリサイ派は、「きみは予言者ではない。暴徒であり、破壊者だ。」とこたえればこたえられたのであり、この答えは、人間と人間との関係の絶対性という要素を含まない如何なる立場からも正しいと言うよりほかはないのだ。秩序いたいする反逆、それへの加担というものを、倫理に結びつけ得るのは、ただ関係の絶対性という視点を導入することによってのみ可能である。

 現代のキリスト教は、貧民と疎外者にたいし、われわれは諸君に同情をよせ、救済をこころざし、且つそれを実践している。われわれは諸君の味方であると称することは自由である。何となれば、かれらは自由な意志によってそれを撰択することが出来るから。しかしかれらの意志にかかわらず、現実における関係の絶対性のなかで、かれらが秩序の擁護者であり、貧民と疎外者の敵に加担していることを、どうすることもできない。加担の意味は、関係の絶対性のなかで、人間の心情から自由に離れ、総体のメカニスムのなかに移されてしまう。

 マチウの作者は、律法学者とパリサイ派への攻撃という形で、現実の秩序のなかで生きねばならない人間が、どんな相対性と絶対性の矛盾のなかで生きつづけているか、について語る。思想などは、決して人間の生の意味づけを保障しやしないと言っているのだ。

 人間は、狡猾に秩序をぬってあるきながら、革命思想を信ずることもできるし、貧困と不合理な立法をまもることを強いられながら、革命思想を嫌悪することも出来る。自由な意志は撰択するからだ。しかし、人間の情況を決定するのは関係の絶対性だけである。ぼくたちは、この矛盾を断ちきろうとするときだけは、じぶんの発想の底をえぐり出してみる。孤独が自問する。革命とは何か。もし人間の生存における矛盾を断ちきれないならばだ。


 
1.
 なんだか真木悠介さんの「~への疎外」とか、そういった話との関連を思い浮かべるようになったのは最近のこと。どういう関連があるのか、あるいはないのかは知らない。余談。

2.
 相対と絶対。「関係の絶対性」を規定するのはなんだろうか? 「上」から、あるいは何かしらの強固な「組織」から押しつけられるものがあるとしたら、それは確かに絶対的な関係であるだろう。あるいは、「自然」――高島善哉の用法にならい、本来の自然・人間的自然・社会的自然といってもいい――が強いる何か、というのもイメージしやすい。しかし、だ。今、僕がこだわりたいのはそこではない。ごく普通の、「同じ地平に立つ他者、あるいはあくまで相対的に立つ地平の違うといった程度の他者」との関係である。

3.
 しかし、「同じ地平に立つ他者、あるいはあくまで相対的に立つ地平の違うといった程度の他者」といっても、ジェンダーの問題や働き方のありようは時として絶対的な関係になりうるだろう。そのことを忘れないこと。

4.
 「同じ地平に立つ他者、あるいはあくまで相対的に立つ地平の違うといった程度の他者」が、「絶対」的な関係を突き付ける場合がある。特段に聖人君主というのでもなく、適度にダメさをお互いに許容し合っている、そういう関係であったとしても、そのような絶対性を突き付けられる時が、ある。相対性が絶対性に転化する瞬間が、ある。

5.
 僕がいる。特定の他者が一人いる。この二人の関係において、絶対性を突き付けられる瞬間があるというのはどういうことか。僕の立ち位置なりライフヒストリーなりと、特定他者のそれとの差異によって不可避的に引き起こされるものがある、ということは出来る。とすると、両者の立ち位置とライフヒストリーを包括しうるのは、たとえば「社会」という概念であるだろう。「自然」なり「神」なりをおいてもいいのかもしれない。僕と特定他者の両者に超越して両者を包括する、あるいは両者の関係を究極において規定する「何か」が、第三項としてある、と考える。この第三項――「媒介」といってもいい――は、僕には「救い」として観念される。

6.
 どういうことか。絶対性を担保・保証するのは「社会」「自然」「神」であるとするならば、その「恩寵」はやがて僕にもやってくるかもしれない、と考えることが出来る。聖道門か浄土門かという話はひとまず措くとしても。しかし、そう考える自分の中に、不遜な考えが宿っているのを認めざるを得ない。それは、絶対性を突き付ける他者に対し、「お前だって『媒介』の中に生きている以上、それらを断ちきってなお成り立つ絶対性を持っているのではないんじゃないのか?」と衝く、ということである。要するに「お前だって相対的な存在じゃないのか」ということになるのだろう。たしかに、嫌味ったらしく「上から目線」で「絶対性」を突き付ける人間には有効だ。だが、「同じ地平に立つ他者、あるいはあくまで相対的に立つ地平の違うといった程度の他者」には有効とは必ずしもいえない。傷つけてはいけない人間を傷つけてしまいかねない。お互いに傷をつけあって、まっとうに成長していく関係が構築できればよいのかもしれないが、そうした関係に成功したためしは僕にはほとんどない。

7.
 「媒介」にいきなり逃げずに、まずは他者の突き付ける絶対性に畏れおののくことから、もういちどやりなおそうと考える。相対性の中で絶対性を獲得した、その瞬間をもっと大事に考えるべきではないか。そして、他者の絶対性に応答する自分自身を、突き詰めて考えること。それらを経てはじめて「媒介」を観念する、そうした回路をもう一度丹念に追いなおすこと。


 ヘーゲルか……。
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by todoroki-tetsu | 2010-09-07 06:38 | 批評系 | Comments(0)

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