問うことと問われることについてのメモ

 自分の勉強のために。吉本隆明さんの『マチウ書試論』を引く。文芸文庫版のP.132‐134。


 マチウ書二三の二でジェジュは言う。

「学者とパリサイ人はモイズの法壇に坐っている。それ故、かれらが諸君に言うところをあげて行いまもれ。だがかれらの業にならうな。かれらは言うが、行わないから。かれらは重要な荷物をくくって人の肩にのせるが、それを指で動かそうともしない。かれらは行うところことごとく人にみられるためにするのだ。すなわちかれらは大きな護符をみにつけ、衣服に長いふさをつけ、宴会では第一席を、教会では第一座を愛する。かれらは公共の場では挨拶されることを、そして人からラビラビと呼ばれることをこのむ。」

 じつにこまかいところまであげて、律法学者とパリサイ派を攻撃しているが、マチウの作者がすでに固定し、定形化した宗教的な秩序を、どんな苦々しい感情でながめているかということが、リアルに生理的に描き出されている。抑圧された思想や人間には、いつもこのように秩序が受感されている。そして既にできあがった秩序の上にあぐらをかいて固定している思想や人間は、形式主義も偽善もへちまもない。ようするにわれわれは勝者であり、諸君は敗北している。諸君もわれわれと同じような方式をとらないかぎり、決して秩序から疎外されることを免れない。すくなくとも人間の構成する秩序は、けっしてこれ以上の型をとらないのだから、と言うだろう。構成された秩序を支点として展開される、思想と思想との対立の型は、どれほど幼稚に見えようとも、これ以外の型をとることはない。キリスト教と言えども、秩序と和解したとき、やはり衣服に長いふさをつけ、宴会では第一席を、教会では第一座をあいしたし、人の肩に荷物をくくって、自らは指で動かそうともしなかったのだ。マチウ書の作者が、ここで提出しているほんとうの問題は、現実の秩序のなかで、人間の存在が、どのような相対性のまえにさらされねばならないかという点にある。

 ゆらいこの課題はけっして解かれたことがない。あらゆる思想家がみな見ぬふりをしてきただけであり、すくなくともマチウ書の作者は、幼稚で頑強なこの課題に、はげしくいどみかかったのである。キリスト教は、それ以後、マチウ書のしめした課題にたいして三つの型をとった。第一は、己れもまたそのとおり相対感情に左右されて動く果敢ない存在にすぎないと称して良心のありどころをみせるルッター型であり、第二は、マチウ書の攻撃した律法学者パリサイ派そのままに、教会の第一座だろうが、権力との結合だろうがおかまいなしに秩序を構成してそこに居すわるトマス・アナキス型、第三は、心情のパリサイ派たることを拒絶して、積極的に秩序からの疎外者となるフランシスコ型である。人間の歴史は、その法則にしたがって秩序の構造を変えてゆくが、人間の実存を意味づけるために、ぼくたちが秩序にたいしてとりうる型はこの三つの型のうちのどれかである。


 
1.
 「パルタイ」的なものを想定してみるのもよいだろう。が、そうした文脈としてではなく、ここでいう「秩序」を、たとえば「他者」と置き換えてみることが出来ないか。他者からの問いかけに対し、自分はどう応答するのかという問題として。

2.
 異性愛男性はまさにそのことによって女性を抑圧している、という問いかけが仮にあったとする。問われた異性愛男性は、どう応答しうるだろうか。正社員はまさにそのことによって非正規労働者を抑圧している、という問いかけが仮にあったとする。問われた正社員は、どう応答しうるだろうか。それらを考える手がかりにこの一連の文章はなりうるか?

3.
 問いかける他者と自分との関係性は? 同じ地平に立っているのか、それともどちらかが高くてどちらかが低いのか、それとも価値判断を含みうるような高低差ではなく少し無機質な印象を意図して位相と言い換えてもよいのか。

4.
 他者が他者である以上、他者は自分ではない。差異はある。たとえわずかなものであっても、差異はある。それは問いを発した/発せられた瞬間に発生するのか、それとも潜在化されていたのが顕わになるだけなのか。

5.
 同じ地平に立つ他者、あるいはあくまで相対的に立つ地平の違うといった程度の他者から発せられる問いが、地平を「超越した」問いかけに思える瞬間はあるか? その瞬間を体験するか、いや、気づくかどうかが、「神」という問題意識をもつか否かの分かれ目になるように思える。

6.
 問いかけられているつもりが問いかけていた、ということはないか。質問に質問で返す、といったレベルではなくて。問いかけられた瞬間、すでに自分は他者に何かを問うているのではないか。そこに何か源基的なものがあるかもしれない。その手触りを、後悔とともに何度でも思い起こそう。
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by todoroki-tetsu | 2010-09-05 20:23 | 批評系 | Comments(0)

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