〈加害者意識化した被害者意識〉

 杉田俊介さんの「ロスジェネ芸術論(3)」を読む。二読したものの、安易に感想を記すのは気が引ける。そりゃそうだ、「君の暴力を前に本稿は長い中断に陥った、と前回述べた。その先で何が書けるのか、わからなかった」と杉田さんが記す、その「長い中断」の間、僕は事件のことを直接には思い起こしていなかったのだから。その時間の意味は、読者としてもやはり考えなくてはという気がする。


――「ここで考えたいのは、僕のように、事件当時は少しは考えた気もするが、時が経てば忘れているような、そういう人間のことだ」と以前記した。そう記した僕も、一方では事件から受けた印象を自分なりの問いに「変換」して断続的に考えてきたと言えなくはない、とは思う。このへんのことについては別の機会に記してみたい――


 浅尾大輔さんの評論「かつて、ぶどう園で起きたこと」とのシンクロを感じたのは一読の後。気のせいか、たまたま比較的最近読んだからというだけなのか。


 二読の後、スッとは頭に入ってこず、どういうことなのだろうと考えさせられる言葉にあらためて、気づく。〈加害者意識化した被害者意識〉という言葉である。まだまだ読み返さなければならないのだが、一方的な「読者特権」(?)を利用し、連想した自分の経験を述べてみる。


 学生時代、フェミニズムをかじろうとしたことがある。その経緯はここでは記さないが、様々な局面で、いや全局面でというべきなのか、女性(とここではあえてひとくくりにする)が遭遇している困難があるということ、そのとば口に少しだけ、触れた。


 じゃあ、男性(とここでもあえてひとくくりしておこう)であるお前=自分はどうなんだ、という問いはすぐに跳ね返ってくる。間接的に、いや、無意識のうちに直接的に加害者になっているだろう自分はなんなんだ。答えを見つけられぬまま、ジェンダー概念なら少し展望が見いだせるかと思った時もあったけれど、結局何も出来ずに挫折した。


 挫折の過程をたどっていく際、不穏な考えが頭をよぎった。「自分も何かの被害者であったなら、力強い言葉と立ち位置を確保できるかもしれない」。差別を、被害を、語り、えぐる言葉は、「加害者」の立場性を問い切れぬまま「被害者」のことを考えようとしていた僕にはとても強く、圧倒的に正しいもの映った。不遜を承知で言うが、「あこがれ」(!)すら、感じていたのだ。


 それは、恐ろしい考えだと思った。あいまいな卒論を書いて、僕は逃げ出した。


 今となっては、「被害者」が言葉を獲得していくまでの困難への想像が決定的に欠けていたし、だからこそまたそこに見出しうるであろう展望をつかみ損ねたのだろうなとも思う。あの時逃げ出していなければ、別の展望を持ったかもしれない。しかし、逃げ出さずに落ち切るところまで挫折していたら? 強い言葉を、明確な自分の言葉を求めて、さりとて「被害者」という「立場」も獲得できずに悶々としていたら? あとはもうより直接的な「加害者」になるしかなくなるのではないか……。


 後知恵を交えながら過去のことを思い出したりもしたのだが、記憶が呼び覚まされたのはしばらく前に読んだ対談集『フェミニズムは誰のもの?』による。ここでの森岡正博さんの言葉(杉田さんとの対談)に、共感するなどとは失礼かもしれないが、しかし、何か突き刺さるものを感じたのは事実。

 たとえば最近の二十代三十代の若い男性で、ジェンダーに関心を持っている人たちに話を聞くと、「本当は男より女のほうが得してるんじゃないか」という発想が結構あると思います。そういう感覚は我々にはあまりない。我々は「なんだかんだ言っても男が得してきた」に違いない、と反射的に思ってしまう。そこには世代間断絶がある。だからこそ、期待している部分があるんです。
                        『フェミニズムは誰のもの』、人文書院、p.148-9



 こんなことを想起しながら、もう一度読み返してみることにする。
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by todoroki-tetsu | 2010-08-09 22:20 | Comments(0)

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