「殺される」ことについて――その二

 「自分が殺されるのはいやな癖に、他人を殺す側になることは想像できる、というのはどういうことだろう?」と昨日記した。今日はここからはじめてみる。

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1.
 すんでのところを生きのびた苦しい体験を有するのであれば、その痛みから殺されることを想像することは出来るかもしれない。が、僕は今までのところ幸運にも実際にそんな大変な目にあったことはない。自分で自分を殺そうと思った、その体験だけしかない。が、これは主体的な選択であって突然他者からもたらされるようなものではなかった。もちろん、そこに至るまでには様々な他者が介在してはいるが、何かひどいめにあったとかいうのではなく、こうありたい・あるべきと思い描く自分がそうでない自分を肯定できなかった、という側面が強い。


2.
 ならばもう少し他人にやさしい人間になっていてもよさそうなものだが、そうはなっていないのが何とも情けない。ここは最近真面目に考えなければならないと思っている。


3.
 さて、殺される、というのは明らかに受動的な行為である。何らかの決意や思想でもって何かのために身をささげるということはある。どこまでがはたして自己決定といえるのかという問題はここでは問わず、何かしらの自らの意図や覚悟があったものは主体的行為として考えることとしよう。


4.
 もし他者に身をささげようと考えていた人がいたとしても、それは「誰でもよかった」というような殺され方で満足が出来るだろうか? 身をささげようとなんて考えもしない僕だが、仮にそういう決意をしたとしても、せめて世の中の誰か一人くらいを助けられるような殺され方ならば少しはお役に立てるのか? などとと思う。「誰でもよかった」なんてたまったもんじゃない。

 やっぱり殺されるのはいやだ。


5.
 しかし、もう一度立ち返る。「自分が殺されるのはいやな癖に、他人を殺す側になることは想像できる、というのはどういうことだろう?」

 殺されるのはいやだ、というのは、自分の殺されない状態が肯定出来ているからである、というように考えてみる(A)。もうひとつには、殺すことを想像するのなら、自分が殺されることも想像しなければならない、というように考えてみる(B)。


6. 
(A)殺されるのがいやなのは、自分の殺されない状態が肯定出来ているからである 

 「別段日々の生活が満ち足りて仕事にも満足していて友達もたくさんいてあるいはパートナーがいて……なんてことは一切ありゃしないのだが、それなりになんとかやっている(と思いこんでいる)生活が、無意味に奪われるのはいやだ。いや、意味があってもいやだ。」と昨日記した。思い込んでいるんだかなんだか知らんけれども、とにかくそれなりに生きている日々を、僕は肯定出来ている。そこは、間違いない。だから、「殺される」のはいやなのだ。

 では、それなりに生きている日々を肯定出来なかったとしたらどうか? 運よく正社員であること、そこそこに職場に居場所があること、非社交性の塊だけれどもそれでも多少の他者とのつながりがあること(こう考えてみると本当に有難いことだ)……。もちろん、自分なりに考えたりしてきた/いることの積み重ねもないとはいわないけれども、制度的なことや他者の存在、そんなことが重なって、そこそこに肯定が出来る条件が、今の僕にはある。でも、ひとつひとつが崩れていったらどうだろう? 

 確かに今は正社員だ。手取りで年収は300万を少し切る。貯金はわずかしかないが、借金はない。恵まれているといえばいえる。が、斜陽産業のこの業界、いつ会社から何を言われるか、また会社そのものがどうなるか分からない。そうなったら職は見つかるだろうか。『ブルーカラー・ブルース』の転職の描写が思い浮かぶ……。うまくいかなかったら、きっと「自己責任」なのだろう。「自己責任」と「自己中心」との境目はどこにある?

 自分が生きていることを肯定出来ないからといって他者を殺していいとは思わない。当たり前だ。ただ、生きていることを肯定出来なければ、他者が生きていることを肯定的にとらえる、その想像力は貧弱になっていくような気が、僕はする。


7.
(B)殺すことを想像するのなら、自分が殺されることも想像しなければならない

 これは論理的に考えればそうなる、というだけのことなのかもしれない。自分だけに他者を殺す特権があるわけではない。冷静に考えると、そうなるような気がする。少なくとも、自分の想像力をそのようなものとして鍛えることは、困難だが不可能ではない気がする。井上ひさしさんの『ムサシ』めいてくる。それもよかろう。あるいは、大澤信亮さんの次の言葉を頭の片隅においておくのもよいかもしれない。

 たとえば、イエスは、姦淫を犯した女を石で打とうとする民衆に対し、「石を投げるな」とは言わなかった。「投げる資格がある者は投げよ」と言ったのだ。個体の内部に攻撃性を折り返し、自らへの問いを喚起させるこの力こそが、普遍宗教の本質である。
                      (「柄谷行人論」、「新潮」2008年11月号、P.276)



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 まだまだ不十分だが、読者としてひとまずここまでの準備をした上で、杉田俊介さんの「『ロスジェネ芸術論』(3)――加藤智大の暴力(その二)」(『すばる』、2010年9月号)を読み始めることにしよう。
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by todoroki-tetsu | 2010-08-06 23:44 | Comments(0)

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