「殺される」ことについて


「誰かを殺さなくてもいい。殺されることもない。普通に生きられる。そんな人々が『なぜ人を殺してはいけないのか』というオシャベリに興じる。耐えがたい光景です。むしろ、問いは逆です。無力な者は論理的にも倫理的にも他者を殺してよい、にもかかわらず、かれらのほとんどは誰も殺さない。……ぼくらにかろうじてできるのは、かれらが『殺してもいい、にもかかわらず殺さない』でいる日々の実践の謎から無限に何かを学ぶくらいではないか
(『無能力批評』、P.53-54、下線部は実際には傍点)



 杉田俊介さんが赤木智弘さんへの手紙の形式をとって記した、「誰に赤木智弘氏をひっぱたけるのか?」の中の一文である。


 古い話で恐縮だが、秋葉原の事件のほぼ直後、言っていることに一番「なるほど」と感じたのは赤木智弘さんの言葉だった。その時の赤木さんのブログ記事はこちら。その後意見が変わっているのかどうかは存じ上げぬけれど、事件とご自身との接点というか立ち位置を明確にされたのがしっくりきたんだろうと思う。


 杉田さんの言葉と赤木さんの主張を並列することが妥当なのかどうか分からないけれど、「読者」として勝手な読み方が許されるとするならば、どちらも「人を殺してはいけない」という一言でだけ語ろうとはしていない、という点で共通していると言える。杉田さんは「人を殺してはいけない」という言葉を見事に逆転させた。赤木さんは、事件加害者よりも年長の言論人であることをもって、自分が殺されうる可能性も含めて「責任」がある、と明言した。いずれも、人は人を殺し/殺されうることを直視した上で記された、重い言葉だと思う。

 
 では、「読者」としてはこうした言葉をどう読むべきだろうか? 好き勝手に読んでよい。「消費」してよい。そう思う。正しい読み方なんてありゃしない。でも、殺すこと/殺されることを心底見据えた上で出た言葉であるならば、そしてそこに何かしら感ずるところがあるのであれば、書き手の思いを少しでも想像してみようとするのは悪いことではないだろう。


 そこで、こう考えてみる。自分は人を殺し、あるいは人に殺されるということを、どうイメージしているのか、と。自分のイメージを拡げることで書き手が記した言葉の意味を自分なりに引きつけてみたい。人を殺す側に立ったときのイメージについては記してみたことがあるので、殺される側になった時のことを想像してみる。
 
 
 色んな場合があるだろうけれども、仮に、何にも悪くはないのにいきなり路上でナイフで刺されたことを想像してみる。驚きが先か痛みが先か。痛いのは御免だ。なぜ自分が? 命乞いで助かるならなんでもするだろう。たぶん、泣く。大声で叫ぶかもしれない。恨みと未練と疑問が駆け巡るだろう。やり返そうとする気持ちも失われていくかもしれない。いや、考える場合じゃなくてただ痛みにもがき苦しんでいるだけかもしれない。即死ならいいなんて訳がない、そもそもなぜいきなり人生が奪われなきゃいかんのだ……。

 
 ダメだ、やっぱり僕は殺されるのは御免だ。どうしてもいやだ。別段日々の生活が満ち足りて仕事にも満足していて友達もたくさんいてあるいはパートナーがいて……なんてことは一切ありゃしないのだが、それなりになんとかやっている(と思いこんでいる)生活が、無意味に奪われるのはいやだ。いや、意味があってもいやだ。


 自分が殺されるのはいやな癖に、他人を殺す側になることは想像できる、というのはどういうことだろう? たぶん、ここのあたりを考えないことには「批評」の言葉の理解には近づけない気がどうもしてきた。


 「泥沼」にまた入り込みそうだ。
[PR]

by todoroki-tetsu | 2010-08-05 22:37 | Comments(0)

<< 「殺される」ことについて――その二 「27歳」と「自己中心」 >>