「27歳」と「自己中心」

 今日の「毎日」夕刊、1面中ほどの右わきにある「近事片々」が目に留まる。

――どうでもいいことだが、ある時から「毎日」は折り目に記事がかかるようになってしまったなあ。そのぶん文字が大きくなった気がするので、「行って来い」でOKではあるが――

 秋葉原無差別殺傷事件の被告とウィルス作成容疑者、どちらも27歳。「底なしの『自己中心』の闇」とする。

 単なるタイミングなのか、同い年だからなのか、「自己中心」という共通点が見えたのか、僕には分からない。こうした短いコラムは特にある種の「技巧」が必要なのだろうと想像してみると、鋭い洞察のようなものは、ひょっとするとさしてないのかもしれない。

 ふたつのことが思い浮かんだ。


 ひとつめ。27歳という年齢について。1982年か83年生まれということになるのだろうが、秋葉原の事件の後、女性契約スタッフとの雑談で、こんなことを言っていたのを思い出す。

 「私、(秋葉原事件の被告と)同い年なんです。同年代は事件起こす人が多いんです。酒鬼薔薇事件もそうだし、佐賀のバスジャックもそう」

 その彼女は、別のある時、確か独自のブックフェア企画の相談を、これまた雑談まじりにやっていた時にこんな風なことをつぶやいた。

 「私たちの世代には(問題意識とか)なんにもないんです」

 いずれも会話の流れの言葉であり、特に後者は企画する際の意図とか問題意識とか、そういったことについてやりとりしていた中でのことなので――しかも僕は一応上司である――、そのあたりは差っ引かなきゃいけないかもしれない。彼女は文学畑であり、よく本も読んでいるし、僕などから見ると非常にセンスのいいセレクトをやる、目的意識的なスタッフである。その彼女の口から「(問題意識とか)なんにもないんです」という言葉が出たことに、ずっと引っかかっている。

――ちょっと気になって確認したのだが、今朝ちらと書いた高橋優さんも、プロフィールを拝見すると1983年生まれだった。もちろん、偶然である――

 特定の世代や年号にあまり意味はない、という気もする。僕は1975年生まれだが、きっと事件を起こしている人も少なくないだろう(とはいえ、パッと今思い出せないことも確かだが)。ただ、色々と立場の違いはあるだろうけれども、1995年をひとつの共通の体験として認識は出来る世代として特徴づけられる何かがあるのかもしれない、とは思う時がある。随分前、1970年代生まれの著者の本だけを並べてみたことがあったが、75年以降の生まれの人の書いたものは何かちょっと「かげり」とか「暗さ」といったものが垣間見えたような気がしたものだ。

 僕よりも若い世代で何が起きているのか知りたい、と別段切に願っているわけでもないし、努力もしてはいない。ただ、「自分とは違う」という思いだけが自分の中にあるのではない。まどろっこしい言い方だが、そういう感覚は少しばかり、ある。


 ふたつめ。「自己中心」という言葉について。「自己チュー」「自己チュウ」とも表記されるのと同義と思われるのだが、この言葉がいつ頃から使われ始めたのか、よく分からない。学生時代麻雀をやる連中がよく口にはしていた気もするが、今のような意味ではなかったように思う。

 「自己中心」……なるほどそうかもしれない。「他人に迷惑をかけるな」といった意味であればそれはその通りだと思う。パソコンが動かなくなりゃ当然相当に面倒くさいことになるし、ましてや車ではねられたり刺されたりするなんて、やった本人がどういう思いであれ、まっぴらごめんだ。
  
 しかし……。

 本当に、本気で、異常でもなんでもなく、素直に(!)、「他人」のことをまったく想像出来なかったのだとしたら、どうだろう? もちろん、それによって罪が軽くなるわけでもなんでもないけれども。

 大澤真幸さんが「への疎外」とからめて秋葉原の事件を論じていたのを思い出す。正直なところ、以前読んだ時でも今でも、どうにもピンとこないのだけれども、再チャレンジする価値はありそうだ。
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by todoroki-tetsu | 2010-08-04 22:09 | Comments(0)

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