「言葉」と関係性

 昨日のうだるような暑さの中、涼を求めて近所の和菓子屋兼氷屋に出向く。夕方というには少し手前、つけっぱなしにされているテレビから、秋葉原の事件の公判についての報道が流れる。


 テレビによれば、事件の原因は三つある、と被告は語ったという。氷をつつきながら、「ん?」と思った。もし、「三つある」などという表現をしたのであれば、かなりの程度自己相対化がされているように思われる。これは相当に自分自身で考えたか、あるいは誰かのサジェストがあったか……。確かめるすべは今の僕にはないが、今朝の「朝日」「東京」の記事などを見ると、比較的理路整然と語っていたのであろうという印象を持つ。なぜちょっとした違和感を覚えた(ている)のか、自分でもよく分からない。


 「言いたいことを言葉にできず行動で示してしまった。それが自分のパターンだった」(「毎日」)とか、掲示板で「本音で厳しい意見を書き込んだら(掲示板の仲間と)仲が悪くなり、サイトに行きづらくなった」(「東京」)などとある。


 ここだけ取り出すと、「言葉」が問題のように思えてくる。職業的関心から言えば、彼はどんなものを読んでいたのだろう、というのは気にかかる。


 言いたいことを言葉にする「スキル」、あるいは「本音」をうまく表現する「スキル」……こうしたことは様々な関係性の中で多かれ少なかれ経験し、少しずつ身につけるものであって――「しつけ」だの「学校教育」もひとつの位置を占めるかもしれないが、すべてではない――、傷ついたり傷つけられたりしながら身につけるものだと思う。人との関係性によって身につける、といおうか。


 とすれば、被告をめぐる関係性やいかに、という問題になるだろう。その関係性は彼にとってどのようなものであり、また僕のような遠く離れた者とまったくもって無縁なのか否か。


 最後に。息子さんを亡くした男性のコメントが紹介されている。「自殺を試みたという加藤被告の話に『不謹慎だが、自殺していれば一人の命で済んだのにとも思った』とやりきれない胸の内を明かした」(「東京」)。

 
 自分自身に向かう暴力・殺意と不特定の他者に向かう暴力・殺意。特定の他者には必ずしも向かわないのが不思議なのだが、仮にこの二種の暴力・殺意が極めて親和性の高いものだとしたらどうだろう?  
 

 ずいぶん前に永山則夫さんの「鯨」をめぐる散文(詩)について記したことがある。手掛かりになりそうな、ならなさそうな……。
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by todoroki-tetsu | 2010-07-28 07:24 | Comments(0)

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