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上田耕一郎「現代の生活における貧困の克服」を再読する

 「座右の書」といってもいい。今までに何度となく読み直している論文である。湯浅誠さんの「社会運動と政権」(「世界」2010年6月号)を読んで、いわゆる社会運動とはなんぞやみたいな気持ちになって、また読み返した。twitterでのタグは #uedhnkn とした。


 この論文については、お亡くなりになった時にも記したことがある。この時記した感想は今回の再読においてもさして変わらない。


 その上で、いくつかを記しておきたい。


 ひとつめ。「綱領的要求」という用語をめぐって。要するにアメリカ帝国主義と日本独占資本を敵とする考え方だと言ってよかろう。たぶん、大まかには間違っていないだろうとは思う。


 何かの問題で具体的に困っていたり苦しんでいたり、そういう中で「敵は○○だ!」と宣言してくれる人がいるのは心強いことかもしれない。それによって解放されることは十分ありうるだろう。しかし、そうはどうしても思えない、という場合もある。一度は誰かが名指ししてくれたことを信じられたものの、何かのきっかけで離れることもあるだろう。


 宣言する人も、その「正しさ」だけを信じるようになってしまい、「本当に正しいのか」という検証をいつの間にか忘れることがあるかもしれない。


 あるいは、「敵」に気づいている人が「高次」にいて、気づいていない人が「低次」……そんな風に捉えられることがあるかもしれない。こうなると性質の悪い「信仰」だ。


 様々なブレやゆらぎやためらいが、ある。労働にも、認識にも、運動にも。それらをすべてひっくるめて「こみ」にしたものとして、「小宇宙」としての「生活」がある。


 そんなことを思いながら読むと、「綱領的要求」から再び「生活」に戻ってくる回路が見えてくるように思える。


このような全人民的連帯の統一した政治的・思想的自覚だけが、連帯の内部における部分的な利害対立を揚棄し、対立をかえって統一を強化する契機に転化し、困難を前進の原動力に転化することができ、結局は個々の要求をも最短距離で実現する全人民的運動を組織する道を見出すことができるのである(P.211)
 



 好意的に過ぎる解釈かもしれないが、しかし、単線ではない認識の、少なくとも手がかりはあるように思えてくる。「還相」?


 ふたつめ。時代のせいもあるだろうし、読んでいる僕の先入観でもあるのだろうが、イメージとしては工場労働者なのだ、書かれているのは。もちろん、それだけを上田さんは念頭に置いているわけではない。けれど、どうも、僕の中では工場労働者なのだ。寅さんが「職工」と呼びかける朝日印刷所の労働者であり、博であり、タコ社長である。


 何が言いたいか。


 こまっしゃくれた言い方をすれば「生産過程」のイメージと言えようか。もっとも、僕のイメージそのものが貧弱であるからえらそうなことは言えない。柄谷さんにかぶれたがごとく「流通過程」だの「交換」が云々などと持ち出すのは場違いでもあるだろう。ただ、現在の労働と生活のありようを深く捉える試みを重ねていかねばこの論文を今に活かしたことにはならないし、今の自分の日常を重ね合わせて読み変えていくこともある程度許されているのだろうとも思う。


 とはいえ、


 
長時間にわたる残業、乳幼児をあずけた夫婦共かせぎ、きわめて安い家庭内職などによってはじめて保たれている「高度」で「近代的」な消費生活の『ゆたかさ』について、われわれは何を語るべきであろうか(P.181)



 といった記述が到底1963年に記されたものと思えない今の状況ではある。が、上田さんは予言者ではないし、そう読んではならない。今の時代に読みなおす人間が「更新」していかねばならない。


 ここで生活調査などを丹念に読み込んでいれば格好がよいのだが(笑)、なかなかそうはうまくはいかないもので、最近読んだり読みはじめたりしているもので、何かしら「更新」の手がかりになりそうだなと思っているものを羅列してみる。


1.星野智幸さんの『俺俺
 
 昨日の「朝日」における中島岳志さんの書評にずいぶんとそそられて、読み始めたところなのでまだ何とも言えないが、えらいこと期待している。


2.タカさんの『ブルーカラー・ブルース
 
 タカさんが描くような現場は直接には知らないし、10年も正社員の椅子に座っているような僕がどうこう言うのも失礼な気もする。が、なんかこう、ざわっとくるものを感じる。


3.浅尾大輔さんの「かつて、ぶどう園で起きたこと」(『モンキービジネス』VOL.10所収)

 多くは記さない、というよりも、まだ記せない。浅尾さんの評論は、口調の柔らかさにいい意味でつられてしまうのだけれども、「渾身の一撃」に向けて全てを集中している。その姿は――ほめ言葉として僕は言いたいのだが――、レーニンを思わせる。その集中に見合うような読み方が出来ているか、自信がない。が、ここだけはどうしても引いておきたい。

 
 資本の総過程が恐慌を準備するなら、私たちの作家は、労働者の心が壊れていくさま――たとえば狂気、殺人と自殺の物語をますます描くことになるだろう。あるいは労働力の再生産過程――職場・学校、家族から排除された「フリーター」「ひきこもり」「障がい者」、もしかしたら「自分はブスだから生きる価値なんてない」と思い悩む小学生を主人公にすえた物語と向き合っていくかもしれない。
 とどのつまり、私たちの文学の運命は、資本――カネと暴力に破れていく人間の終わりを描くのか、それとも、資本に反逆し、「嘘」をつき返し、唾を吐くような人間たちの物語をいかに再構築するのかという、もはやそのどちらかの選択しかない。(P.280)


 リアリズム、とはこういう認識のことを言うのだろう。


 こうした豊富な同時代の手がかりを過去の到達と縄をなうがごとく束ねていくのは、「読者」に他ならぬ。

by todoroki-tetsu | 2010-07-20 00:29 | 業界

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