秋葉原の事件に寄せるでもなく――その八

 一昨日は完全オフ。昼飯をたらふく食い、昼寝。チャイムの音で起こされる。出ようかと思ったけれど、やめた。面倒くさいので無視。勧誘かセールスか、あるいは放りっぱなしにしている交番のアンケートみたいなやつか。いずれにせよ、どうでもいい。どうして誰にも邪魔されない筈の時間と空間に闖入してこようというんだろう。腹が立つ……もう少しさらっと受け流してもいいんじゃないかという気もするのだけれど。
 
 一日働いた後で言葉を連ねることが何か意味を持つのかもしれないと思いこんだせいか、ただ単に気がのらなかったせいか、ブログを更新しなかったのが一昨日。昨日は酒を飲んだので更新しなかった。酔った頭では言葉が出てこないか、空回りするだけだから。

 今日は朝早くから働いた。その分早く帰って来たのだが、朝早くからまだ仕事をしている人はまだ、いる。しかし、もはや眠い。


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1.
 おおよそのことはグダグダと書き連ねているうちに書いてしまった気がする。もとからまとまらぬまま長い文章を書く癖がある僕だが、こういう書き方はあまりしてこなかったようにも思う。何かが変わったというよりも、何かを変えようとしたいのだろう。


2.
 35年近く生きていればある程度の(悪)知恵というものはあって、何か物事を考える際の技巧みたいなものは多少なりとも出来てくる。「社会」という一見分かったような術語で何かを言った気になることについてはすでに記してみた。もちろん、それは不要なことではない。が、そこに自分の存在をゆるぎなく打ちこんでいなければ免罪符に過ぎぬ。


3.
 「社会」みたいな言葉を使わなくても、例えば「高度」や「距離」といった概念を使ってみても、もちろん、それが手掛かりになることはあるだろうが、結局は一緒のことだ。自分がどこにいるのかを明確にしていなければ。ごく近しいところで起きたことでもない限り、いや、たとえごく近しいところであったとしても、同じ高度――地平といってもいい――や同じ距離――地点といってもいい――で考えることはたやすいことではない。結果として近づけることはあるかもしれないし、それによって何かがよい方向に変わることもあるだろう。けれど、その前に、自分はどの地平にいるのか、どの地点に立っているのか、そこにこだわらなければ結局のところ敗戦と同義であるところの「転戦」でしかない。


4.
 「時間軸」についても同じようなことが言える。今は分からないかもしれないが、いつかは分かるかもしれない。今の自分は想像力や理解力が不足しているかもしれないが、いつかは……そんな風に考えて断続的にでも努力してみようとすること。しかし、すでに記したように「困難は、ともするとこういう考え方によって現状肯定の免罪符を得たように思いこんでしまうことだ。こうなると、課題の後回しを過程と言い換えたに過ぎなくなる」。この困難は根元的なものなのか、それとも技術あるいは修練で克服できるものなのか。


5.
 僕のこの数日の文章は、自己否定というか、自己批判というか、そういったものを繰り返しているように思われるかもしれない。が、そういう意識はあまりない。暴力性があり、想像力が貧弱で、大きな事件が起きた時にはさも深刻な顔をして考えてみる癖に時が経てば忘れてしまうような、そういう自分をまずはありのままに認識してみたいのだ。いや、そういう自分を一度は中途半端ではなく心底肯定してみたいのかもしれない。そこから、まっとうな「批判」――「批評」?――が生まれてくるだろう、と。


6.
 しかし、「批判」を為さしめるのは一体なんなのか。いや、そもそも自己認識が意識的に必要だというのはどういうことなのか……。ここまで考えてみて、ようやく「他者」という問題を、誰かの書いた言葉に納得するだけでなく、自分自身の感覚として引きつけることが出来そうに思える。まだ、「出来る」とはいえない。今ここに深入りするのは措いておく。


7.
 暴力性、想像力の貧困、忘却(注意あるいは集中力のなさ?)を認識するということは、すくなくとも自覚的であるということである。自覚は他者からもたらされる。そういう感覚が、生じてくる。開き直りも自覚の一種であり、これはいわば他者からの問いを拒絶する一形態であろう。だが一方で、必ずしも開き直りとはいえないような認識が、僕には生じたように思われる。なるほど僕は秋葉原の事件を忘却した。けれども、忘却していたことに気づかせてくれたのは具体的な他者であり、そこには他者の問いに応答しようとする自分がいる。この関係性にはある程度の確からしさが、ある。たとえ僕の一方的な思い込みに過ぎなかったとしても、また時が経てば忘れてしまうかもしれないものであったとしても、何度でもこの地点からはじめてみたいと思う。


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 ほんとうに「寄せるでもなく」という文章の断片になってしまった。結局他人の不幸をダシにして自分語りをしたかっただけなのではないのか、というような批判は甘受しよう。少なくとも直接的に見知った人が関係しているわけではない事件を、「社会の問題」という言葉を発する手前で、あるいは「関係ない」という言葉を発する手前で、自分自身を入れ込んで考えてみようとした。試みる価値は自分にとってはあったなと思う。


 その上で、ある種の方法論というか技術論、もしくは認識論なのかもしれないが、そうしたものの漠然としたイメージも途中にはあった。頓挫している「原爆批評」について、あらためて考えてみたいと思っている。
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by todoroki-tetsu | 2010-07-15 22:01 | Comments(0)

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